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ni0615
阿南陸相未亡人インタビュー「市ヶ谷台の弔火」
http://www.geocities.jp/yuzukoseu/page028.html
8月15日市ヶ谷台の弔火:
昭和47年、元毎日新聞記者大森実は週刊誌「週刊現代」掲載の「直撃インタビュー」の取材のため、長野県にて出家中の綾未亡人にインタビューを行った。当時、実弟竹下正彦(軍務局国内班長、中佐、戦後陸上自衛隊幹部学校長歴任の後退官)は存命していたが、未亡人はかなり卒直な証言を残している。
- 阿南:もうあのころは敵軍の部隊が上陸するとかいう情報がずいぶん盛んでございまして。11時ごろ林さんという秘書官の方が迎えに来てくださいました。その車で官邸に参りました。
- 大森:朝の5時ごろの最後の模様は弟さんからお聞きになりましたか?
- 阿南:そのとき弟がおりましたんですが、縁側で自決したらしゅうございますね。それで、次男の写真を床の間に飾って…
- 大森:ああ、戦死なさった…
- 阿南:はい、そして自分の軍服もその脇にすっかり並べておいて、自分はワイシャツだけになりまして、それで縁側で自殺したらしいんでございます。
- 大森:軍服はあとで着せろというわけでしょうね。
- 阿南:はあ、それで弟が「介錯しましょうか」って申しましたそうです。けれども、もう「介錯はいらないだろう、そのためにいままで剣道もしてきたんだから」って申しましたそうです。
- 大森:剣道何段でございますか。
- 阿南:段はいただかないんでございますけど、まあちょっと相当だったらしゅうございます。
(中略)
- 大森:弟さんには、自分の自決と言うことをお話になっているわけですね。
- 阿南:はあ、それはもうみんな知っていたらしゅうございます。副官はもちろん、官邸におります憲兵さんでもなんでも…
- 大森:弟さんも?
- 阿南:はい、弟はもう知っておりまして、それで「介錯しよう」って申したそうでございますけどもね、「介錯はいらん」ということで。
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(このあと、使った短刀(御下賜金で作った)や遺書の話のあとで、15日の火葬の話にもどる。市ヶ谷の士官学校にて阿南は荼毘に付された)
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- 大森:士官学校の中に、そういう火葬の設備があるんですか。
- 阿南:いえいえ、設備はございません。そのときは特別に。まあ、他に行きようもございませんしね。そんなもんで、自分たちの育った士官学校のところが、と言うような意味もございましたか。そこに参りました。
- 大森:元の士官学校といいますと場所は?
- 阿南:市ヶ谷でございます。
- 大森:そうすると市ヶ谷の士官学校の校庭かなんかで火葬に。
- 阿南:はい。そこに日露戦争のときにぶんどった大砲などがございまして、そこで皆腰掛けて遊んだとこだそうでございます。車を降りましてそこまで行きますところは、秘密書類かなんか焼きましたかで熱うございましたよ。草履の下からポカポカと。
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終戦時の陸軍大臣阿南惟幾は8月15日朝、陸相官邸で自決した。
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当時三鷹私邸にはたまに帰宅するだけで、ほとんどを官邸で起居してため、阿南綾夫人は当時の彼の日常についてはほとんど把握できなかったようだ。
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最後に私邸にもどったのは8月11日、ほとんど唐突な帰宅だったという。そして、翌朝には緊急の呼び出しにより出仕することになり、これが生前の別れととなった。
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昭和20年8月15日朝7時過ぎ、竹下から大臣自決の第一報を電話にて受けた。そして11時、陸軍大臣秘書官林三郎(大佐)とともに車で都心に向かうことになった。
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官邸で遺体と対面、その後即日荼毘に付し、翌朝葬儀を市ヶ谷の陸軍士官学校(後、東京裁判会場。現在跡地には防衛庁本庁舎が建つ)にて実施されることを告げられた。
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このとき、荼毘、葬儀に付されたのは阿南一人ではない。
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前夜、近衛師団長殺害に端を発した近衛連隊の叛乱騒ぎの「首謀者」と後言われることになった畑中健二(軍務局軍務課員、少佐)、椎崎次郎(同、中佐)と一緒であった。
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陸軍省『機密終戦日誌』にいわく。
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次官閣下以下ニ報告
十一時二十分、椎崎、畑中両君宮城前(二重橋ト坂下門トノ中間芝生)ニテ自決。午後屍体ノ引取リニ行ク 大臣、椎崎、畑中三神ノ荼毘、通夜、コレテ以テ愛スル我ガ国ノ降服経緯ヲ一応潤筆ス陸軍省
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ようするに三人とも「神」なのである。しかし、陸軍大臣(大将)と中佐、少佐風情は同列に扱えるものだろうか?そして、式場である市ヶ谷とは、このとき三宅坂陸軍省、参謀本部から運び込んだ膨大な機密資料を廃棄焼却するため文字通り灰神楽が立っている現場、しかも、これはその日のうちに急遽処置なのである。
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陸軍はあきらかにこの3名につながりがあり、一刻も早く忘れ去りたいと念願しているかのようである。
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さらに奇怪なことがある。叛乱事件に連座した近衛師団参謀古賀秀正少佐(森師団殺害後の命令書偽造者、東条英機女婿)は、やはり8月15日午前、近衛師団司令部で自決しているが、彼の遺体のみは用賀の東條邸に送られ、17日に密葬をされている。そして、叛乱関与者の何名かがその後東條邸に出入りし続けているのである。
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また、阿南夫人の証言によると、竹下からの一報の際、「まだ息があるのか」という質問に竹下があるかもわからんが、もうだめかもしれん、というような答えをしたと言う。
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通説によると自決時刻は朝3時以降。美山要三(大佐)が駆けつけて、死亡を確認したのが7時15分とされる。介錯不要と言われて傍観したとしても、竹下は割腹した人間を4時間も放置したことになってしまう。自決そのものは種々考え合わせると6時以降ではないか。すると、なぜ、戦後この部分でウソの証言をしたのかと言うことになる。
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3時とは、近衛師団長殺害想定時刻(2時)以降、偽命令により近衛連隊が宮中に入城した時刻にあたる。この間、井田正孝(軍務局軍事課、中佐)、そして暗殺グループのメンバーと目される窪田兼三(陸軍通信学校、少佐)があいついで報告に駆けつけている。
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そして、5時頃、東部軍司令官田中静壱(大将)の指揮のもと、反乱鎮圧と侵入部隊の無血撤収が成功した。
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一方、3時から夜明けまでの間に三宅坂では何があったのか?
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- 大森:お葬式には天皇から勅使かなにか…
- 阿南:いえいえ、そういうことはいっさいございません。で、あの集会場で葬式をいたしましてね。
- 大森:あの学校の講堂ですね。
- 阿南:そのときに、朝いっしょに宮城前で自決されました若い方二人と三人いっしょにお葬式でございます。集会場かなんかでございましたわね。陸軍士官学校の生徒の方は全部参ってくださいましてね。まあ、そのときなどは、なかなか憤慨している方も若い方達には多ございましてね。なごやかなお葬式じゃございませんのよね。
- 大森:憤慨といいますと?
- 阿南:まあ、陸軍は降参しないつもりでおりましたからね。もめはいたしませんけど、皆が納得しない顔で焼香されましたよね。
- 大森:そうですか。それはまあ、ご遺族としてわかるわけですね。
- 阿南:いえ、それはもう遺族でなくても、一目見れば皆興奮しておりますからね。そりゃあの時の状態と言うものは、ただの普通には考えられません。火葬にいたしまして、翌朝そのお骨を拾ってそれから…
- 大森:お葬式があるわけですね。
- 阿南:はあ、で、私どもがその上で休んでおりますと、下で燃えてるのが見えるのでね。ほんとうにイヤでございましたよね。
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陸軍大将とは天皇により親任式を行って任命される職階であり、国務大臣も大命降下を要する。その人物の慶弔に関しては当然勅使が派遣される。これは戦時であろうと敗戦であろうと、また、不祥事、任務失敗による退場だろうと、官制変更がなされていないうちは変更はない。
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つまりこの場合、その葬儀、しかも省によるオフィシャルなものに勅使派遣がないということは、考えられない事態といえる。強いて考えるなら、現行の体制に対して反逆を企てる、すなわち大逆の嫌疑しかありえないのではないだろうか。
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22阿南陸相未亡人インタビュー「市ヶ谷台の弔火」
ni0615
2007/06/26 15:07:46
http://www.geocities.jp/yuzukoseu/page028.html 8月15日市ヶ谷台の弔火: 昭和47年、元毎日新聞記者大森実は週刊誌「週刊現代」掲載の「直撃インタ ...
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