日常生活では、どんな店屋の主人でもしごくあたりまえに、ある人が自分がこうだと称する人柄と、その人が実際にどういう人であるのかということを区別することぐらいはできるのに、わが歴史記述ときては、まだこんなありふれた認識にさえも達していないのである。それは、あらゆる時代を、その時代が自分自身について語り、思い描いた言葉どおりに信じ込んでいるのである。 『ドイツ・イデオロギー』
070723
■ [memo][link] "「典型的な」人身取引の被害者という人はいない。"

従軍慰安婦の問題を巡っているうちに、現代の日本における人身取引の問題を扱った文書を目にして読んでみた。
日本における性的搾取を目的とした人身取引 “Human Trafficking for Sexual Exploitation in Japan”
ILO 駐日事務所 日本語版報告書発行 2005年12月
(PDFのリンク)
日本に売られる非日本人女性のほとんどはどうやらいわば自発的に応募する。募集の文句にはそれが性的サービスに関わる仕事であると書かれている事はほとんどなく、人身業者の手で日本の空港まで送り届けられて、その場ですでにその被害者には膨大な借金があることを通告され、性的サービスに携わることを強要されるのである。このシステムは、私がこれまで目にした従軍慰安婦の徴募システムと似通っている(もちろん大きく異なるのはその背景にオーガナイザーとして政府・軍部があるかどうか、という点である)。報告書の中には、だまされて取引の対象となった人間が、いわば”自発的に”自分の従姉妹の女性を騙して日本に呼び寄せる、といったような例がある。これをトラウマ状況にある一種の心理的な補償機制(すなわち、自分の置かれた最悪な状況を正当化するため)として報告書は解釈しているが、いやはや、人間の心理の複雑さには、事実は小説よりも、という言い回しが浮かんだりする。極限状況の慰安婦にも同じような話が実はあったりするのかもしれない。しかし、現代から過去を眺める目では、こうした詳しい事情への分解能は得ることはできないだろう。
”自発的に応募する”という部分が、慰安婦の場合でも現代の人身取引でも問題になる。騙されたのが悪い、というような昨今流行の自己責任強調型の意見もあるし、また、慰安婦=売春婦と喧伝する類の人々は自発的、という点にこおさらフォーカスを当てようとする。一方で、こうした論調に押されて、自発的ではない徴募、ないしは自発とはいえ詐欺であったことを強調しようとするという対抗言論もある。これは重要な議論であることは確かなのだが、実はこうした土俵の立て方は問題を考える上でその本質的な部分を見過ごさせる結果になるのではないか、と思っている。この点について上記の報告書は明確に次のように述べている。
「典型的な」人身取引の被害者という人はいない。被害者本人による決断が人身取引被害者と化すことに繋がりうるという見方は、メディアや政府にとって魅力的ではないようだ。結果として、「全く落ち度のない被害者」のみが人身取引被害者として扱われることとなり、他の人身取引被害者は「犯罪者」として扱われる。このような区別は、世界規模の人身取引ネットワークの活動を助長する多様な要因を認めないため、有益ではない。
人身取引は、「被害者の母国、通過地点、最終目的地国にまたがる一連の出来事であり、単独の行為ではない」ため、人身取引の複雑な過程を解きほぐして分析することは容易でない。人身取引のケースでは、取引される過程で起きる出来事は別々の区別されたものだが、全て関連している。国際的には、移住の説明は目新しいものではない。しかし、人身取引ネットワークは、人の募集・獲得から移送、強制労働までの全過程をコントロールするため、移住とは異なるものである。加えて、個人の移住が強制労働に繋がり、かつ人身取引ネットワークがその労働から利益を得ることを意図して人の募集・獲得を行うので、人身取引は移住とは異なる。
つまり、人身取引に関して論ずる際には、労働搾取の問題を強調する必要が生じるのである。これは、労働過程をコントロールする者に主たる責任を正面から担わせ、被害者(又は、間違いなく被害者ではないと思われる者)の行為は考慮すべき事柄の1つに過ぎないと念押しする際に役立つ。
”労働過程をコントロールする者に主たる責任を正面から担わせ”ること。従軍慰安婦の問題も同じことだ。たとえ慰安婦本人が自分を売春婦である、と自己規定していたとしても(そんな話はみていないが、かく主張する人々を念頭に)、その労働過程をコントロールしていた政府・軍部の責任がチャラになるわけではない。