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日常生活では、どんな店屋の主人でもしごくあたりまえに、ある人が自分がこうだと称する人柄と、その人が実際にどういう人であるのかということを区別することぐらいはできるのに、わが歴史記述ときては、まだこんなありふれた認識にさえも達していないのである。それは、あらゆる時代を、その時代が自分自身について語り、思い描いた言葉どおりに信じ込んでいるのである。    『ドイツ・イデオロギー』

私家版・従軍慰安婦問題のリンク集(2008・8)

080402

[] "一歩手前"から受け渡され行くもの 10:21 はてなブックマーク -  "一歩手前"から受け渡され行くもの - kmiura  "一歩手前"から受け渡され行くもの - kmiura のブックマークコメント

lovelovedogさんとabeshinzoさんのキーワード編集合戦をめぐって、「イデオロギーにとらわれない歴史認識」の立ち位置を分析したものとしてはこの一文が出色だな、と思った。

gerlingさんの示してくださった記事に即して言うなら、西岡昌紀氏は、決して強烈な反ユダヤ主義者ではない。西岡氏自身は。西岡氏は「イデオロギーにとらわれない歴史認識」の深い陥穽に落ちた人であって、そうであったに過ぎなかった、言行の結果における犯罪性にもかかわらず。ゆえにこそ問題、ということがある。かくも極端な事例でなくとも「イデオロギーにとらわれない歴史認識」を「教科書が教えない歴史」と言い換えた本が売れに売れた時代がありました。すなわち、90年代初頭における西岡氏のごとき「極端な事例」が、広範に一般化したのが90年代後半という時代であった、とは言いうる。ポストモダニズムが決定的にシニシズムへと変容したのも。

補遺(「イデオロギーにとらわれない歴史認識」の陥穽)

http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20080401/1207013219

こうした”実証的”歴史認識が拡大・展開し、単に専門家の知見をコケにしつつナショナリズム排外主義に添寝する人間が増加したというのが現状なのだろう。それは上の一文の本論でも触れられているが、丸山真男のオフィスに乱入して焚書を行った吉本隆明信者の学生達につらなる存在なのだろうな、と思う。こうした風潮は次の応答にも見事に反映していると私には思える。

質問 この映画は日本を利するものではないから税金をつかうべきではないと考えるのか。

稲田 そのように考えたことはない。週刊誌が言っているように、この映画が反日的だから税金を使うべきではないということでなく、政治性がない映画かという点で(税金を)使うべきかどうかという問題意識を持っている。日本は一部の政治家が文句を言って映画の上映を取りやめにする国ではない。試写について、事前検閲とか表現の自由に対する制約と言われることは、弁護士出身の議員として心外である。

「映画『靖国』の試写は事前検閲ではない」稲田朋美議員の訴え

http://www.news.janjan.jp/government/0803/0803283785/1.php

イデオロギーからフリーであることを標榜しているはずなのにこうした形で取り込まれて行くこと、あるいはたきつけてしまうこと、あるいは利用されてしまうことに、lovelovedogさんは意識的であるべきだと思う。

[追記]

網野善彦は「日本史の文書主義=実証主義の弊害は実に恐ろしく、世界史的にも稀である。」といい、中世&エゾの歴史を研究する海保嶺夫は「書かれていなければ、何もなかったとするような、とんでもない歴史認識がまかり通っていた」という。事実は、文字として記録された「書類」に事実の有無を規定されるものでないというのは、歴史にもあてはまることである。

戸坂潤は、思想の自由が方法論として解釈哲学文学主義を産むのと並行して、文献学主義を産み、「現実の事物の代りに文書乃至文献の語源学的乃至文義的解釈だけに立脚する」極端な例として、歴史の文献学主義的な「解釈」を挙げている。

解釈・文学主義と歴史修正主義

http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20080401#p1

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