日常生活では、どんな店屋の主人でもしごくあたりまえに、ある人が自分がこうだと称する人柄と、その人が実際にどういう人であるのかということを区別することぐらいはできるのに、わが歴史記述ときては、まだこんなありふれた認識にさえも達していないのである。それは、あらゆる時代を、その時代が自分自身について語り、思い描いた言葉どおりに信じ込んでいるのである。 『ドイツ・イデオロギー』
080326
■ [memo] 歴史修正主義についての文章からクリップ

ソース原理主義者とか。
はてなメインのキーワード「歴史修正主義」に関する議論
http://norevisionism.g.hatena.ne.jp/bbs/2
「歴史修正主義」をめぐって
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20080325/1206411718
反証としてファクトの呈示とその重視と「知りえないファクトに対する判断保留と沈黙」とその勧め、
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それは「歴史学的には」修正主義的立場です。「イデオロギーに規定されない歴史記述」を志向することにおいて。
第一に「歴史修正主義」は政治用語ではないこと。その言葉と概念の由来する文脈と成立の経緯の(ホロコースト否定論に限定されない)大枠についてそもそも御存知なのかあるいは知っていて無視しているのか。捨象しうることと考えているか。
第二に、hokusyuさんは歴史学的な正統を、すなわち「近現代史のメイン・ストリーム」「漢字近現代史」を頭ごなしに振りかざしているのではなくて、また愛・蔵太さんに対して価値的なレッテルを一方的に貼っているのではなくて、過度に属人的な議論をしているのでもなくて、歴史学的な正統に対する反証的な議論が「ファクトの存在」に基づくのではなく「ソースの不在」にのみ基づいて展開されるなら歴史学的には「お話にならない」し「広義(いや狭義か)の修正主義」ですらない、と示していること。
第三に、「歴史学的な記述」の正統が歴史的な文脈すなわちイデオロギー的な史観に依存することは事実であるが、必ずしも直接的な政治性に依存するとは言い難いこと。たとえば沖縄戦をめぐる教科書記述問題において「直接的な政治性に依存」し「歴史学的な正統」を省みなかったのは誰か(愛・蔵太さんである、ということではない。為念)。
第四に、歴史学的な正統に対するファクトの存在に基づいた反証的な議論はむろん無問題であるけれども、そもそも歴史学における議論の蓄積に対する敬意なく単に政治主義と「政治用語」に対する反撥のみから、言説のイデオロギー性と「ソースの不在」を指摘しての修正主義的な懐疑を再三呈示するなら、「歴史学的に」厳格な立場から悪質と判断されてやむをえず、修正主義的な議論としてもまったく成立しないこと。トンデモとは言われることなくとも、またホロコースト否定論者と同質にしてよいことではまったくなくとも。
端的に申し上げて。意図的であれ無自覚であれ、歴史学的な正統の存在に対する単なる撹乱行為でしかない。「どっちもどっち」「みんないっしょ」「どれも同じ」と、雑多なファクトとソースを、有無にのみ焦点化し歴史的条件/前提や文脈やその妥当性において選別することなく並列し、価値的に相対化する類の。
近代の中心主義イデオロギーとその抑圧性に対する批判としてあった歴史修正主義とは、そういうことではない。ホロコースト否定論者たちは、その理念的な立場を僭称し挙句部分的に簒奪した。そのことについて、「歴史修正主義」を政治用語のごときレッテルとしてくれたことに対して、政治主義を好かない私は、我が日本の否定論者に対して腹を立ててもいる。