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ni0615
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焼却から逃れて防衛研究所に戻った陸軍文書
焼却から逃れて防衛研究所に戻った陸軍文書
大口は次の3系統か
- 接収史料:米国が58年になって日本側に返還した接収文書の一つは、42年前半以前の陸軍文書。空襲を避けるため、東京都南多摩の陸軍省地下倉庫に移してあったのを進駐軍が持ち帰った。bbs:26:20
- 個人隠匿史料:(例)「昭和20年8月14日大東亜戦争終戦に方り陸軍一般に保管書類焼却 の指令が出されたが、第二課〔参謀本部作戦課〕においては本大陸命(指)綴のみは焼却せず、庶務将校椎名典義中尉が都内某所に隠匿し、第一復員省(局)史実調査部(資料整理部)編成に伴い、占領米軍の公私に亘る一般資料追及の監視を避けて部長宮崎周一中将が自宅に保管した。bbs:25:69
- 厚生省(復員省)からの移管資料
日本近代史研究のABC
B.図書館を使う
http://www4.ocn.ne.jp/~aninoji/nationaldifence.html
から一部引用
このように、空襲を避けるためにとられた一時的な疎開措置の結果、これらの資料が結果的には焼かれることなく残ったということになります。ということは、現在残っている軍関係資料は、参謀本部・軍令部の資料をほとんど欠き、陸軍にあっては軍政関係の「陸軍省大日記」を中心としてもの、海軍にあっては軍政関係の内、機密・秘密以外の普通文書類「公文備考」に限られることになりました。
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しかもこれらの資料群には次の災難がふりかかったのです。日本の敗戦によって、WDC(Washington Document Center)による接収が始まりました。このアメリカの機関は、1944(昭和19)年半ばに成立し、もとは米陸軍省副官部の下部機関で、資料接収に当たるものとされており、1945年8月末から、1946年3月31日まで資料の接収作業を展開しました。この間の接収文書の点数が444,522点だったことはわかっています。しかし、1958年4月に返還された時には、「陸軍省大日記」の3分の1、「公文備考」の7分の1が返ってこなかったのです。つまり現存する「陸軍省大日記」と「公文備考」を全部閲覧しても、旧軍資料のごく一部しか見たことにはならないのです。
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とはいえ、当面は限られた資料で勝負しなければならないとすれば、陸軍省大日記はどのような利用価値があるのでしょうか。それについて、相澤淳「文書館・史料館めぐり 防衛庁防衛研究所戦史部」(『日本歴史』1992年10月号、533号)によりながら見ておきましょう。陸軍省大日記は、1868(明治初)年から1942(昭和17)年分までが現存しています。大日記には幾つかの種類があり、分類方法は、大正期以降では、次のようになっています。
ⅰ)甲輯 諸規則関係の普通文書綴。徴兵令など法律の改正などの書類はここに綴じられている。
ⅱ)乙輯 甲輯以外の普通文書綴。
ⅲ)密大日記 「秘」の区分のある文書綴。
ⅳ)機密大日記 戦時動員関係など「機密」の区分のある文書綴。
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(中略)
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ここで、前掲相澤淳氏のご論文による内容紹介によるものも補充しておきます。
・返還資料
②「公文備考」(11000冊)
③「陸軍戦時書類」
④「海軍戦時書類」
日清戦役戦時書類(明治27~28)
清国事変書類(明治33)
日露戦役戦時書類(明治37~38)
清国事変戦時書類(明治44~大正2)
大正戦役戦時日誌(大正3~9)
大正戦役戦時書類(大正3~9)
・厚生省(復員省)からの移管資料
・個人・団体等からの寄贈資料
①服部史料・堀場史料(日中戦争、太平洋戦争期の国防政策に関する文書)
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他には
http://kins.jp/pdf/20hatano.pdf
が詳しそう
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29焼却から逃れて防衛研究所に戻った陸軍文書
ni0615
2007/06/27 00:55:04
焼却から逃れて防衛研究所に戻った陸軍文書 大口は次の3系統か 接収史料:米国が58年になって日本側に返還した接収文書の一つは、42年前半以前の陸軍文書。空襲を避けるため、東京都南多摩の陸 ...
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