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dempax
鹿内信隆フジサンケイグループ会議議長(1973年当時)が語る公文書焼却
櫻田武/鹿内信隆『いま明かす戦後秘史 上』(サンケイ出版 1973/11/30 isbn:438302288X )p.129-134を抜書き
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終戦の混乱,750万円の証文[p.129]
鹿内信隆 もう一度,話を戻しましょうか.
櫻田武 終戦直後のことですが,一つ面白い話があるんですよ.
日清紡は戦時中,飛行機の部品をずいぶん作っておったでしょう. その代金は三菱重工業の関係のはもらったんですが,中島飛行機のほうは,中嶋知久平さんのお屋敷が駒場にあったんですけれども,そこへ行っても,まあお気の毒で,請求書を置いて私は黙って帰ったぐらいなんです.
櫻田武 終戦8月20日前後なんですよ. ところが,そのころになると陸軍省の経理局も書類をどんどん焼きますわな. そのときに私は「日清紡績は,これだけ払っていただかなきゃならんものがあるんだが」と聞きにやりました. 金額は83万5千円ぐらいのものでした. するとね. 「それは用意してある」とおっしゃるんです. 私は大変に喜んで,営業部の次長をやったら小切手でちゃんと払ってくだすった. ところが,払ってくれたのを私がよく見てみると,一ケタ違うんだ. 835万円なんだ(笑). 私は自転車ですっ飛んで行った. 日本橋の本社から陸軍省まで. そして,経理局長閣下に,確か中将か少将でしたが,その人に「これは一ケタ違います. 書き直して切り替えてください」といった. そしたら「きみ,いまそんなことをいわれても,書類は全部焼いちまったんだ. しかし,その小切手は日銀へ持っていけば,ちゃんとそれだけの金はくれます」「いや,私はもらうわけはいかん. 閣下,それじゃそれだけもらって余分を返すが,あなたは引き受けますか」と押し問答です. でも,さすがだったなあ. その経理局長はね「おい,馬鹿にするな. おれはそんなものの上前,負けたうえにはねるわけにはいかん」っていいましてね.
鹿内信隆 結局,どうなったんですか.
櫻田武 「じゃあ,どういうふうにいたしましょうか. 私の方が陸軍省の経理局から頂戴せんならんものは83万5千円なんですから. それなら,余分のほうは私のほうへ一年でも二年でもお貸し付け願えませんか. どうせ,陸軍とはいいながら,国の財政資金でしょうが.」といったら「それはそのとおりだ」「それじゃ拝借することにして,その書類は私が作りましょう. それは受け取ってください」ということになりましてね. 結局,私は835万円マイナス83万5千円の借用証文に櫻田武の判を押して置いてきました.
鹿内信隆 面白いお話ですね.
櫻田武 その経理局長の名前はもう忘れましたが,そのときに「そんなことをいってきたのは,きみの会社一つだ」といわれましたよ. 835万円といえば,当時は大変な金ですからね. でも,まあ私が一年半ほど借りましたよ. そうしたら,そのうちにこんどは大蔵省の弁護士さんが,私のところへえらい剣幕でねじ込んで来て「あれを勝手に持っとるとは何事だ」というんです. だから「いや,勝手に持っとるんじゃない. お払いになろうという分を,それは金額が違うからと借用証文にしたんですよ」といったんですが,そうはいっても,それを証明するものは何もないわけです. こっちも.
まるで,こっちが悪いようなことを弁護士さんがいうもんですから,えらいけんかになりましたけれども,結局,お借りした分については一年あまりの利息をつけてお返ししましたがね. とにかく,あのころは書類を片っぱしからドラム缶の下のほうに穴をあけて,どんどんぶち込んで燃やすんですから,陸軍省でも海軍省でも. それはもう,大変な書類の焼却でしたね. あれは,むしろ焼かないで,とって置いたほうがよかったんじゃないかと思いましたね.
- 中嶋知久平(なかじま・ちくへい) 明治17年1月1日,群馬県生まれ. 海軍機関学校卒業. 海外留学後,海軍を退き,大正6年,郷里に近い太田町に飛行機研究所を設立,翌7年,中島飛行機製作所(のちに中島飛行機と改称)と改め,民間による航空機製造に着手した. 「零戦」のエンジンも中島製で,終戦までの陸海軍機の生産機数は最も多く,日本の航空機産業の草分け. 昭和5年から終戦当時まで代議士当選5回. この間,13年に政友会総裁に就任,第一次近衛内閣の鉄道相,終戦内閣の軍需相を努めた.
敗戦処理,隠退蔵物資がヤミ成り金 [p.132]
鹿内信隆 そのころ,ぼくはもう民間人になっておったんですが,それでもぼくのところは完全な軍需会社だったでしょう. それで,清算はちゃんとしてもらって,櫻田さんのところのようなことはありませんでした. しかし,書類はやっぱり全部焼き捨てたもんですから,残った品物が隠退蔵物資になったわけですよ. ぼくたちが,自分で扱っていたときの物資や何かも,敗戦と同時にみんななくなってしまった. それは盗まれたものもあるし,担当官がどこかへ隠したのもあるし. ところが,書類をみんな焼き捨てたわけですから,それが隠退蔵物資になって戦後のヤミ成り金ができた. 国会で隠退蔵物資の摘発の法律ができたのは,そのあとのことでしたね.
櫻田武 そうだ.世耕弘一なんて人が活躍していた.
鹿内信隆 あれは結局,敗戦処理で書類を全部焼き捨てたところに,すべての原因があるわけです.
櫻田武 そのとおりだ.
鹿内信隆 ぼくは,いまでも考えさせられるんですよ. 自分が扱っていたあの膨大な物資がどこへ霧散霧消しちゃったのかと. いまなら,全くありえないわけだから.
櫻田武 ほんとうにそうですね. 隠退蔵物資といえば,私が経験したなかで,いちばんうまいやり方をしたのは航空本部だったと思います. 航空本部のなかの東部航空本部というんですか. いまの吉祥寺の成蹊学園のなかに東部地区の航空本部がありましてね. そこへ繊維関係の紡績はあ十社,化繊会社が七社ぐらい呼ばれまして,能力の多いのに案分してガソリンとトラックを分けてくれたんです. われわれは,いくらで頂戴していいのか,タダでもらうとあとできっと"とがめ"がくると思ったから借用書を入れて,その写しを持ってそれを運んで工場へ入れました. ところが,その保管が大変でしてね. なにしろ西新井や亀戸の工場はみんな焼けとるんですから,下手なところに置いておくと,それを盗みにくるやつがいる. ですから,これは地方の工場のほうへ運んでおきましたがね. そしたら,二年ぐらい経ってからそれの請求書が回ってきて,何ぼかに値踏みされて,その金を払わされましたよ. でも,それまではタダでガソリンやトラックを使わせてもらったわけですから,航空本部はうまい分配の仕方をしてくれたと思いますよ.「どうせ,これからは繊維が非常に不足するんだから,きみらは繊維を作って,その輸送に使いたまえ」というので分けてくれて,二年ぐらい経ってから,その代金を徴収した. これなんか非常にうまいやり方のほうでしょうね. 大体,みんなネコババになっちまってますよ.
鹿内信隆 でしょうね. いやそれは大変なものだったはずですよ.
櫻田武 そりゃそうですよ. 日清紡の亀戸の本社工場なんか陸軍の被服本廠の倉庫に貸しておったんですね. ずいぶんいろんな物資が入っていましたが,敗戦の年の三月十日か何かの空襲で完全に焼けてしまった. でも焼けたものはそのまんまですわ. 建物に対する補償もなければ何もない. 補償の話を持って行くにも,持って行き場がない. これは海外の青島や上海の工場と一緒ですわ.
鹿内信隆 戦時補償打切法案というのが出ましてね. 要するにみんな泣けと. 政府はもう面倒を見ないという法律がしょうことなしに最後にでたんですよね.
櫻田武 そうでした.
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51鹿内信隆フジサンケイグループ会議議長(1973年当時)が語る公文書焼却
dempax
2007/07/24 11:14:27
櫻田武/鹿内信隆『いま明かす戦後秘史 上』(サンケイ出版 1973/11/30 isbn:438302288X )p.129-134を抜書き -- 終戦の混乱,750万円の証文[p.129] ...
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