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慰安婦問題政府調査資料について(1)
最近次のように言う人がいます。
『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』という書を読みました。というより、要点に目を通したというほうが正確です。
この書は「女性のためのアジア平和国民基金編」となっています。出版元は龍渓書舎です。
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日本政府が平成4年から5年にかけて発表した「いわゆる従軍慰安婦問題の調査結果について」という資料の「概要紹介」を単行本の形にしたものです。
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この資料は慰安婦問題の研究者、専門家たちはとっくに読んでいるものでしょう。
しかし私にとっては初めての通読でした。そして目を通して驚き、かつ納得したことは「日本の政府や軍が女性を組織的に強制徴用して慰安婦にしたという文書上の証拠はない」という趣旨の政府の言明どおり、ここに概要が紹介された資料はみな慰安婦が募集され、軍はむしろ募集にあたる業者に対し強制徴用の類の行為はとらないよう警告していたような事例ばかりだった、という点でした。
これはいったいどういう試みかと言うと、河野談話に至った政府資料およびその後の慰安婦問題についての日本政府の取り組みの基礎となった政府資料を、全面否定派がそれらを全く逆の解釈で読み換えて、河野談話を否定する材料に化かしてしまおうと言う試みです。
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河野談話否定の試みは、今年3月1日の安倍晋三首相の記者会見でいっきに表面化した。
安倍晋三首相は1日、慰安婦への旧日本軍関与の強制性を認めた平成5年の河野洋平官房長官談話について、「強制性を証明する証言や裏付けるものはなかった。だからその定義については大きく変わったということを前提に考えなければならない」と述べ、談話見直しに着手する考えを示唆した。首相官邸で記者団の質問に答えた。
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首相は昨年10月の衆院予算委員会で、旧日本軍による直接の連行などいわゆる「狭義の強制性」について「いろいろな疑問点があるのではないか」などと答弁し、否定する立場を表明してきた。ただ、「政府の基本的立場として受け継いでいる」とするなど河野談話の見直しには慎重な意向も示していた。
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しかし、米下院が慰安婦問題をめぐる対日非難決議案の採択に向けた動きを示すなど、河野談話が対日キャンペーンの口実に使われていることを憂慮。見直しに着手すべきだとの姿勢を示したものとみられる。
河野談話否定という政府による正面突破戦略は、米国の猛反発をくらってたちまち腰砕けになり、(産経新聞03/05『塩崎長官、河野談話見直しを否定「首相発言は談話と矛盾せず」』)、安倍首相は、政府は「河野談話」継続とするが自民党は「河野談話」を否定する、というダブルスタンダードを公然と表明する(産経新聞 03/09 『首相、慰安婦問題で「党に資料提供」 自民、河野談話再調査へ』)。結局、安倍首相は訪米をまえに米国政府に「河野談話」遵守を表明したが、政府調査資料の読み替え方針は堅持したままだ。
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冒頭に紹介した古森義久産経新聞特別記者の言辞は、「米下院慰安婦決議案」バトルが一段落したころあいを見て出されたものだ。
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では、その「慰安婦問題政府調査資料」とは一体どういうものか?
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私はこのサイトに集まる人と、世間のその他の人ではぜんぜん違ったものに受け取られていることを強く指摘しておきたい。それはどういうことかというと、
(つづく)
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慰安婦問題政府調査資料について(2)
私はこのサイトに集まる人と、世間のその他の人ではぜんぜん違ったものに受け取られていることを強く指摘しておきたい。それはどういうことかというと、
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(1)このサイトに集う人には、それら資料とは、吉見義明教授の資料集やアジア女性基金の資料集でおなじみのものだが
(2)世間の人たちは、政府が調査しそれをもとに河野談話が発せられたが、一般に公開されていない資料である、と受け取っている。
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それは、完全否定派の宣伝によるものではあるが、完全否定派がウソをついているのではなく本心そう思っているだけに、世間に(2)の言説は浸透している。
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げんに、不勉強さでは完全否定派と同等かそれ以上の私は、「政府調査資料230点を知っているなら産経新聞の責任で公開せよ」と産経阿比留記者に要求してしまったのです(笑)。http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/30961/allcmt/#C306810
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WEB上で知られている「政府調査資料230点」といえば、繰り返される以下のコピーです。
河野談話が出された当時の官房副長官、石原信雄氏は平成9年3月、櫻井よしこ氏や産経新聞の取材に対し、日本政府が集めた約230点の資料の中には、日本の軍や警察による強制連行を示す証拠はなく、談話発表の直前に韓国政府の要請で行った韓国人元慰安婦16人からの聞き取り調査のみに基づいて強制連行を認めた事実を明らかにした。その後、国会質疑などで、聞き取り調査の裏付けも行われていないことが判明した。
こうして流布された風説が巡り巡って結論は、
『河野談話は、韓国人元慰安婦の聞き取り調査だけから検証不十分に出されたもので、調査資料をよく読めば否定されるかもしれない』
はては、
『なぜかこれまでの政府は、その調査資料を何一つ公開してこなかった』
という風説すら存在するようです。先の、安倍首相が「党の調査会に政府は資料を提供する」という記事もそうした文脈で読まれているようです。
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そうした前提で次の記事を読むと、それが正論に思われてしまうから不思議です。
河野談話の検証が必要だ 「聞き取り調査」公表せよ
慰安婦問題で日本政府に謝罪を求める決議案が今月中にも米下院で採択される見通しだ。決議案には、「日本軍は第二次大戦中に若い女性たちを強制的に性奴隷にした」など多くの事実誤認の内容が含まれている。
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「慰安婦の方々にとって非常に困難な状況の中、辛酸をなめられたことに対し、人間として首相として心から同情している」
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ブッシュ大統領が「首相の謝罪を受け入れる。大変思いやりのある率直な声明だ」と評価したこともあって、内外の多くのメディアは安倍首相の言葉を謝罪と受け止めたようだが、首相の真意は謝罪ではなく、慰安婦が置かれた境遇への率直な同情の念を表すことにあったと思われる。
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安倍首相は3月の参院予算委員会で、「官憲が家に押し入って人さらいのごとく連れていくという強制性はなかった」と狭義の強制性を重ねて否定したうえで、「米下院の決議が採択されたからといって、われわれが謝罪することはない」と明言した。
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また、首相は慰安婦問題に関する平成5年の河野洋平官房長官談話を「基本的に継承していく」とし、「間に入った業者が事実上強制をしていたケースもあったという意味で、広義の解釈での強制性があった」とも述べた。
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これが安倍内閣の基本姿勢だが、河野談話は慰安婦の募集について「官憲等が直接これに加担したこともあった」などと日本の軍や警察による強制連行(狭義の強制性)を事実として認めた、極めて問題の多い政府見解である。
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もともと、「広義の強制性」は河野談話に基づく慰安婦・強制連行説が破綻(はたん)した10年前、朝日新聞などが持ち出した考え方だ。
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河野談話が出された当時の官房副長官、石原信雄氏は平成9年3月、櫻井よしこ氏や産経新聞の取材に対し、日本政府が集めた約230点の資料の中には、日本の軍や警察による強制連行を示す証拠はなく、談話発表の直前に韓国政府の要請で行った韓国人元慰安婦16人からの聞き取り調査のみに基づいて強制連行を認めた事実を明らかにした。その後、国会質疑などで、聞き取り調査の裏付けも行われていないことが判明した。
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朝日は同月31日付社説「歴史から目をそらすまい」で、「日本軍が直接に強制連行をしたか否か、という狭い視点で問題をとらえようとする傾向」を批判し、「資料や証言をみれば、慰安婦の募集や移送、管理などを通して、全体として強制と呼ぶべき実態があったのは明らかである」とした。
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産経は翌4月1日付主張「『強制連行』は消えたのか」で、この朝日社説を「拡大解釈によるすり替え」と批判した。
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河野談話のもとになった韓国人元慰安婦16人からの聞き取り調査は平成5年7月26日から30日まで5日間、ソウルの太平洋戦争犠牲者遺族会の事務所で行われた。調査団には、当時の内閣外政審議室から4人、外務省から1人、さらに、民間からも元慰安婦の国家賠償を求めていた慰安婦訴訟原告団の福島瑞穂弁護士(現・社民党党首)らが参加した。
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河野談話の文面は、河野、石原氏、当時の谷野作太郎外政審議室長(後の駐中国大使)らが協議し、在日韓国大使館の意見も聞きながら作成されたといわれる。真実よりも外向的配慮を優先させた可能性が強い。
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韓国人元慰安婦からの聞き取り調査の中身は今も、プライバシー保護を理由に公表されていない。概要だけでも公表し、学問的に検証することが必要である。(石川水穂)
(2007/05/14 10:34)http://www.sankei.co.jp/seiji/seikyoku/070514/skk070514002.htm
まさに、戦争犯罪を告発する側が情報を隠蔽し、戦争犯罪を免罪する側が情報公開を要求しているかのような、『倒錯』した幻想が、あたかも現実のように現れている。
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Re:慰安婦問題政府調査資料について(3)
まさに、戦争犯罪を告発する側が情報を隠蔽し、戦争犯罪を免罪する側が情報公開を要求しているかのような、『倒錯』した幻想をあたかも現実のように念を押しているのが、次の阿比留氏のブログ記事である。
2006/08/28 15:48
沖縄・渡嘉敷島で昭和20年に起きた住民集団自決について、那覇市在住の照屋昇雄氏が、60年以上たって「軍命令は創作」だったと勇気ある証言をしてくれました。ろくな根拠もなしに軍による強制と記述している歴史教科書の一刻も早い訂正が求められるところですね。久しぶりに心からうれしいニュースでした。
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旧日本軍の行為については、ほかにも南京事件のように誇大というのもバカらしいほどめちゃくちゃな宣伝工作が行われている問題もありますね。その中でも、日本人自らが世界における日本のイメージを「セックススレイブの国」に貶めたのが、平成5年に当時の河野洋平官房長官が出した慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話、いわゆる「河野談話」でした。
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これは、元慰安婦とされる韓国女性からの聞き取り調査のほかは、資料も根拠もなしに旧日本軍に慰安婦調達の強制性を「政治決断」だけで認めた最悪の談話でした。河野氏や当時の宮沢首相は、韓国の要請にしたがって強制性を認めることで、この問題に決着がつくと愚かな判断を下し、すべての日本人に耐え難い恥辱の烙印を押しました。
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私は正直言って、もし地獄というものがあるのなら、河野氏は間違いなくそこに行くだろうと思っています。過激なようですが、それぐらい怒っています。以下がその河野談話の要旨です。
先は少し省略するが、つづく、石原信雄氏へのインタビュー採録が、倒錯した幻想を現実であるかに見せる説得力を与えている。
引用が長くなることをお許し願いたい。
さてそこで、河野談話ができる際の事務の官房副長官(官僚のトップ)だった石原信雄氏に対し、産経新聞が昨年7月に行ったインタビューの詳録を紹介したいと思います。これは紙面化されていますが、字数の制限がある紙面からあふれた分まで伝えることで、あるニュアンスを感じ取っていただければと考えました。埋もれさすには惜しい内容だと思うのです。
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石原氏 国外、国内、ワシントンの公文書館も調べたし、沖縄の図書館にも行って調べた。それこそ関係省庁、厚生省、警察庁、防衛庁とか本当に八方手をつくして調べた。当然といえば当然だが、日本側の公文書では、慰安婦といわれるような女性を強制的に募集するような文書はない。八方手をつくしたがそんなものはない。日本政府が政府の意思として韓国の女性、韓国以外も含めて、強制的に集めて慰安婦にするようなことは当然(なく)、そういうことを裏付けるデータも出てこなかった。(慰安婦の)移送・管理、いろんな現地の衛生状態をどうしなさいとかの文書は出てきたが、本人の意に反してでも強制的に集めなさいという文書は出てこなかった。当たり前で、国家意思としてそういうことはありえない。(中略)少なくとも、政府の意思として動いた人にそういうことはなかったと思う。文書にないんですから。ただし、戦争が厳しくなってから「(軍が人数を)割り当てした」「軍の方からぜひ何人そろえてくれと要請があった」と、そういう要請はある。それは、従来であれば、業者の人たちが納得ずくで話し合いで本人の同意のもとに数をそろえた。ところが、戦争が厳しくなってからどうも、ノルマを達成するだめに、現地判断で無理をしたのが想定された。(中略)(韓国女性に)ヒアリングした中には、意に反して(慰安婦)にされたと涙ながらに話した人がいた。
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Q 意に反するといっても、親が本人に黙って業者に売ったケースもありうる
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石原氏 そこはああいう戦時下のことだから。しかも個人の問題だから、親との話がどうだとかはこれは追究しようがない。(中略)裏づけ、本人の親と会うとか、当時の関係者と会うとかそういう手段はない。もっぱら本人の話を聞くだけだ。
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Q これで日韓間の騒動が収まるとの政治判断によって、かえって問題は大きくなった。訴訟を起こした韓国女性のいう自らの経歴も二転三転している
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石原氏 我々はできるだけ客観的事実を聞き取るための条件設定努力を続けたけど、それは限界がある。こっちに捜査権があるわけじゃない。誰がどうだったか、金銭関係はどうだったかとか調べることはできない。それは不可能だ。そこは日本政府の意を受けて強制したかどうかは分からない。(中略)我々は、当時の関係者として、いかなる意味でも日本政府の意を体して日本政府の指揮命令のもとに強制したということは認めたわけじゃない。
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Q 河野談話からは、甘言、強圧の主体が誰かが欠落している
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石原氏 普通の談話であれば、物的証拠に基づく手法ではああいうものはできない。だから、論者によっては当然、そこまでいかないのになぜ強制を認めたのかという批判はあるでしょう。あの当時、「絶対強制なんかなかった」「とんでもない話だ」と反対意見もあったし。だけども、本人の意思に反して慰安婦にされた人がいるのは認めざるをえないというのが河野談話の考え方、当時の宮沢内閣の方針なんですよ。それについてはいろいろとご批判はあるでしょう。当時からあったが。
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Q 石原さんは反対しなかったのか
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石原氏 私は補佐役だから、弁解なんかしない。過程はいろいろあるが、政府として内閣として補佐にあたった以上は私は全責任を負わないといけない。個人的にどうだとか言ってはいけない、組織の人間としては。まとまるまでは中で議論があったが、まとめた以上はそこにいた人間は逃げられない。
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Q 河野談話が出された結果、国連人権委員会などでも「セックススレイブ」という言葉が使われるようになった
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石原氏 それはもちろん、そういうことに利用される可能性は当然ある。限られた状況の中で意に反した人がいたと認めれば、やはり訴訟している人たちは一事が万事、すべてが強制だと主張しているが、それを認めることになるというリスクは当然、あの談話にはあるわけだ。それは覚悟した。そういう風に言われるだろうと。だから出すべきでないという意見も中にはあった。だけど、政府として決めたんだから、我々関係者は少なくとも弁解がましいことはいえない。
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Q 宮沢首相の政治判断か
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石原氏 それはそうですよ。それは内閣だから。官房長官談話だけど、これは総理の意を受けて発表したわけだから、宮沢内閣の責任ですよ、もちろん。
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Q 国家賠償請求につながるとは思わなかったのか
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石原氏 全く想定していない。それはもちろん、あの談話をまとめるにあたっては外務、財務、法務省すべて関係者は承知している。われわれはあの談話によって、国家賠償の問題が出てくるとは全く想定していなかった。当然、当時の韓国側も、あの談話をもとに政府として要求するということはまったくありえなかった。(中略)慰安婦問題はすべて強制だとか、日本政府として強制したことを認めたとか、誇大に宣伝して使われるのはまことに苦々しくて仕方ない。もちろん、こういうものをいったん出すと悪用される危険はある。外交関係とはそういうものだから。だけど、あまりにもひどいと思う。(中略)それが(韓国は)今日まで、いろんな国際会議で日本政府が政府の意図で韓国女性を強制的に慰安婦にしたと言っているが、全く心外そのものだ。(後略、おわり)
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(阿比留)
すいません。これでもところどころ端折ったんですが、随分と長くなりました。石原氏は、慰安婦問題で二度、産経新聞の取材に応じてくれた(二度とも私はその場にいました)こともあり、少なくとも彼の誠意と善意は本物だと感じています。一方、この問題の主役である河野氏は、産経新聞のインタビュー申し込みに応じようとはしません。朝日新聞のインタビューには応じ、自己弁護と自己正当化を試みていましたが。
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インタビューを通じ、実は事務方の石原氏は河野談話に反対だったことが浮かんできますが、彼は「批判は甘んじて受ける」というスタンスですね。一方、無意味どころか有害な韓国との政治取引で日本と日本人の名誉に深い傷を負わせた河野氏は反省もせず、今日まで反日言動を繰り返しています。河野談話が、仮に善意や過去への贖罪意識からできたものだとしても、私はやはり許すことができません。
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引用は長くなりましたが、河野談話がいかにも秘密めかしているかのような印象を与えることにはかなりせいこうしているようです。
:
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まあ、こんな風潮の中にあるのですが、私は楽観しているのです。
「政府調査資料」が皆に正しく読まれるならば、と。
(つづく)
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「慰安婦問題」調査報告・1999
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刊行にあたって
「慰安婦」問題 調査報告・1999
■ 刊行にあたって
刊行にあたって
このたびの『「懲安婦」問題調査報告』刊行にあたって、「女性のためのアジア平和国民基金」(以下、基金という)内に設置された『「慰安婦」関係資料委員会』の活動と本書の内容とを簡単に紹介しておきたい。
基金の設立を前にして、1995牛6月日本政府は、「基金の事業内容」のひとつとして、「政府は、過去の従軍慰安婦の歴史資料を整えて、歴史の教訓とする」と発表した。そして、基金は同年7月の発足当初から、「資料の収集と整備」を掲げ、「慰安婦」問題が二度と繰り返されることのないよう、「歴史の教訓として未来に引き継いでいくこと」を活動の主要な柱とした。
その目的を具体化するために、基金関係者のうち歴史学者を中心に、①基金独自の資料調査、②それに基づく調査報告集の発行、③『「慰安婦」関係文献目録』の発行、④これまでに日本政府が調査した「慰安婦」関係資料の影印本化を計画した。また、基金関係者のみならず、外部の学者の参加も得て、1996年10月に『慰安帰』関係資料委員会を設置した。顧問は衛藤慎瀋吉、委員は饗庭孝典、浅野豊美、我部政男、倉沢愛子、後藤乾一、高崎宗司、高橋祥起、秦郁彦、波多野澄雄、橋木ヒロ子、和田春樹の各氏である。
委員会では上記諸計画の実現のために会議を重ねる一方、「慰安婦」問題に関する研究会も随時開いてきた。委員会の開催回数は1998年12月末日までに21回を数えている。
その間、委員自ら、あるいは委員以外の学者に委托して、防衛庁・沖縄・インドネシア・オランダ・ドイツ・アメリカ・ミクロネシアで資料を調査した。本書はそれら調査報告の成果の一部である。
なお、③の『「慰安婦」関係文献目録』は1997年9月に出版社「ぎょうせい」から、④の『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』(全5巻)は1997年3月から1998年7月にかけて龍渓書舎から刊行されている。
さて、今回の『調査報告』は、研究会で報告された資料の紹介・解説・分析を中心とした論文などで構成されている。
以下、それぞれの論文の簡単な意昧づけを行っておきたい。
和田論文は、先に紹介した『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』を通読することによって知りうる実相を整理している。マスコミなどを通して広く問題になっている「『慰安婦』の募集」などの諸問題について史料に.基づく見解が示されている。さらに、「渡航手続き関係資料が示すもの」「渡航証明書発給資料の検討」などは、新しい視角から「慰安婦」問題を照明することによって、今後の研究課題をも明らかにしてくれる。
波多野論文は、「金原節三業務日誌」と「陸軍省業務日誌摘録」とを照合した結果などを報告している。「金原節三業務日誌」は本書によって初めて紹介されるものである。また、「軍医部長会議二於ケル軍軍医部長指示」の紹介も貴重なものである。
高崎論文は、これまであまりよく知られていなかった「半島女子勤労拠身隊」の実態を検証することで、「挺身隊」と「慰安婦」が違うものであることを実証的に明らかにしている。
浅野論文は、写真資料と文献資料を併用し、動態的に分析することを通して、戦場という局限状況の中で見えてくる「慰安婦制度」の本質のひとつを突いている。比較的よく知られたミチナの「慰安婦」関係写真の見直し、米軍兵士が朝鮮人「慰安婦」などに行った尋問記録の読み直し、「宮本キクエ」の尋問調書の紹介などによって、新たに付け加えられた知見も多い。
倉沢論文は、インドネシアにおいて「慰安婦間題」がどのように認識されているかを明らかにしている。そして、元「慰安婦」として名乗り出ている女性40人に対する面接調査をもとに、インドネシアにおける「慰安婦」問題の歴史的実態に迫っている。
山本・ホートン論文は、インドネシアでの「慰安婦」に関する史料をオランダの公文書館で調査した結果を報告している。オランダ史料に基づく各地城別の実態の紹介は、これまでほとんどなされていなかったものである。「補'足」の「関連公文書一覧表」ともども、貴重な報告である。
なお、本書に掲載した論文の文責は各筆者にあることをお断りしておく。
本書が「慰安婦」問題の真相究明に少しでも役立っことを願っている。
1998・年・12月
編集代表・高崎宗司
ソースは
財団法人女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)
>歴史の教訓とする事業
http://www.awf.or.jp/program/index.html
>「慰安婦問題」調査報告・1999
http://www.awf.or.jp/program/pdf/p001_005.pdf
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
政府調査《資料集成》の概要
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/29
資料の復刻版『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』(全5巻、龍溪書舎出版)のPDFファイルは、
第1巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_1.pdf
第2巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_2.pdf
第3巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_3.pdf
第4巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_4.pdf
第5巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_5.pdf
※1)PDFのページ番号は本の頁番号とずれています。
※2)英文資料の頁番号は逆順となりますのでご注意
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『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』を読む 和田春樹
「慰安婦」問題 調査報告・1999
■ 政府発表文書にみる「慰安所」と「慰安婦」一『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』を読む
和田春樹
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ソースは
財団法人女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)
>歴史の教訓とする事業
http://www.awf.or.jp/program/index.html
>「慰安婦問題」調査報告・1999
http://www.awf.or.jp/program/pdf/p007_031.pdf
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
政府調査《資料集成》の概要
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/29
資料の復刻版『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』(全5巻、龍溪書舎出版)のPDFファイルは、
第1巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_1.pdf
第2巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_2.pdf
第3巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_3.pdf
第4巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_4.pdf
第5巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_5.pdf
※1)PDFのページ番号は本の頁番号とずれています。
※2)英文資料の頁番号は逆順となりますのでご注意
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はじめに
■ はじめに
日本政府は1991年12月から92年6月にかけて、「従軍慰安婦」問題に関する資料調査を行い、その結果を92年7月6日に発表した。その後さらに続けられた調査の結果は93年8月4日に発表された。*1とその後も発見された資料はそのつど発表されてきた。それらの資料は今日にいたるまで「従軍慰安婦」問題を考えるためのもっとも基本的な公文書であることに変わりがない。*2
たしかにその内容の大筋はすでに研究者の周知するところとなり、かなりの資料は吉見義明氏の編集した『従軍慰安婦資料集』(大月書店、1992年)*3に全文公表されている。しかし、なおそれはすべてではない。このたび財団法人女性のためのアジア平和国民基金は、政府とともに、この政府発掘の全資料260余件をオリジナル・コピーの形で復刻出版した。龍漢書舎より刊行された『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』全5巻*4である。このように政府発掘の全資料が書籍のかたちにまとめられ、はじめてその全貌が明らかになり、この間題に関心をもつすべての人が、この資料を完全にわがものとして活用することが可能となったのである。私はこの復刻の編集に係わった者として、この政府調査資料を通読することによって、「従軍慰安婦」問題の実相について知りうることをあらためて整理してみようと思う。以下『資料集成』と略記する。これからの引用は巻数と頁のみを文中に示す。
ソースは
財団法人女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)
>歴史の教訓とする事業
http://www.awf.or.jp/program/index.html
>「慰安婦問題」調査報告・1999
http://www.awf.or.jp/program/pdf/p007_031.pdf
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政府調査《資料集成》の概要
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/29
資料の復刻版『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』(全5巻、龍溪書舎出版)のPDFファイルは、
第1巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_1.pdf
第2巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_2.pdf
第3巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_3.pdf
第4巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_4.pdf
第5巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_5.pdf
※1)PDFのページ番号は本の頁番号とずれています。
※2)英文資料の頁番号は逆順となりますのでご注意
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*1:「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.htmlと内閣官房内閣外交審議室「いわゆる従軍慰安婦問題について」http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/pdfs/im_050804.pdf
*3:『従軍慰安婦資料集』http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?nips_cd=9920806595
*4:『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』刊行へhttp://www.awf.or.jp/program/index.html、ここページからPDFへリンクあり
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1 軍慰安所の設置
「慰安婦」問題 調査報告・1999
政府発表文書にみる「慰安所」と「慰安婦」一『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』を読む 和田春樹
ソースは
>歴史の教訓とする事業
http://www.awf.or.jp/program/index.html
>「慰安婦問題」調査報告・1999
http://www.awf.or.jp/program/pdf/p007_031.pdf
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
政府調査《資料集成》の概要
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/29
資料の復刻版『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』(全5巻、龍溪書舎出版)のPDFファイルは、
第1巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_1.pdf
第2巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_2.pdf
第3巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_3.pdf
第4巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_4.pdf
第5巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_5.pdf
※1)PDFのページ番号は本の頁番号とずれています。
※2)英文資料の頁番号は逆順となりますのでご注意
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■ 1 軍慰安所の設置
■ 恤兵金ノ処分二関スル件〔閣譲決定](昭7・7・19)?
満州事変が昭和6年(1931年)にはじまったが、満州の日本軍は最初は軍が専用し、軍が管理する「慰安所」といったものをもっていなかったようだ。国立公文書館所蔵の閣議決定の資料の中に昭和7年7月18日の陸海軍大臣提案の「恤兵金ノ処分二関スル件」がある。そこには、民間から出征兵士によせられた355万4408円の使い道が報告され、「慰安施設ノ為現金ニテ直送シタルモノ」というような表現がある(4巻、147-148頁)。しかし、「慰安」という言葉自体がこのときはのちの時期のような意味をもっていなかった。
■ 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・5・1~10) ?
個別部隊の資料では、混成第14旅団司令部の『衛生業務旬報』昭和8年(1933年)4月中旬分をみると、旅団司令部のあった平泉には、
内鮮人娼妓三八名入リ来リ開業スルニ付キ(同、170頁)
とあって、「慰安所」なるものはない。吉見義明氏は資料の中にある「防疫及衛生施設」(同、178頁)という言葉に注目して、これが「慰安所」だとしているが*1、これは旬報のたんなる見出しにすぎない。軍はこれらの娼妓に対して軍医に性病の検査をさせている。その実施要領は「混成第十四旅団芸娼妓酌婦健康診断実施要領」と題されている(同、187頁)。検査のべ人員が38人のところ、日本人が3人、朝鮮人が35人で、圧倒的に朝鮮人が多いことがわかる(同、170頁)。
■ 北支那並満州国視察報告[工兵第4大隊中隊長](昭9・3)?
昭和9年(1934年)に工兵第4大隊中隊長の塩見久吉大尉が北支と満州を視察して報告を提出している。その中に次のような一節がある。
慰安法ヲ講スルコトハ駐満部隊ニ於テ最モ緊要ナリ折角守備ニ討伐ニ重大使命ヲ果シテ帰営セルモ之ニ対スル物質的慰安ナク待ツモノハ廃屋ノ如キ古兵営ノミニテハ軍心弛ミ易ク荒ミ易カラスヤ(同、239頁)。
この表現はここにはいまだ軍慰安所のようなものは存在していなかったことをうかがわせる。
■ 昭和十三年中ニ於ケル在留邦人ノ特種婦女ノ状況及其ノ取締並ニ租界当局ノ私娼取締状況 [在上海総領事館讐祭署沿革誌二依ル】(昭13)?
しかし、すでに確認されているように、昭和7年(1932年)第1次上海事変によって戦火が拡大された上海には、すでに軍慰安所ができていた。この地に派遺された日本海軍陸戦隊が「海軍慰安所」を設置したのが軍慰安所の最初のものであった。『在上海総領事館警察署沿革誌』に見える昭和13年の「在留邦人特種婦女」の状況、取り締まりにかんする記述によれば、以下の通りである。
昭和七年上海事変勃発ト共二我ガ軍隊ノ当地駐屯増員二依リ此等兵士ノ慰安機関ノー助トシテ海軍慰安所(事実上ノ貸席)ヲ設置シ現在二至リタル(1巻、449頁)。
昭和7年末になると海軍慰安所は17になっていた。これが昭和9年には14に減ったが(同、433頁)、昭和11年(1936年)末になると、「海軍慰安所タル料理店」は3軒とされている。「料理店」とは「酌婦」を置いて客に買春させる施設のことであるが、その総数は10軒、うち7軒が海軍下士官専用、のこり3軒が居留邦人を相手にするものであったというから、海軍慰安所が3軒、海軍下士官用のものがさらに4軒、その他の居留邦人相手のものが3軒ということになる。このとき「酌婦」の数は131名、うち内地人は102名、朝鮮人が29名であった(同、436頁)。ここでは日本人が多い。一般に兵士を相手とする店には陸戦隊員及び領事館警察官吏が立ち会って、毎週2回性病検査をした。海軍慰安所については、
海軍側トモ協調取締ヲ厳ニシ且新規開業ヲ許サザルコトトセリ(同、437頁)
とある。
昭和12年(1937年)に日中戦争がはじまると、上海には大量の日本軍部隊が上陸した。「慰安所」業者たちは一時戦火をのがれて、日本国内に避難したが、その年11月頃には元に戻ってきた。昭和13年12月末日で海軍慰安所は7軒、貸席全体は11軒、「酌婦」総数は191名、うち日本人171名、朝鱒人20名であった。軒数の比例で海軍慰安所にいた慰安婦数を推測すると、148人となる。この他に「陸軍慰安所」があり、そこには「臨時酌婦約300名がいたとある(同、450頁)。「陸軍慰安所」1軒あたりの慰安婦数を上海の貸席の平均17.4人としてみれば、陸軍慰安所の数は17軒程度ということになり、海軍慰安所とあわせると、24軒ということになる。このときの上海の「慰安婦」総数は海軍、陸軍あわせて、約450人と推測される。
■ 支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策[陸軍省副官](昭15・9・19)?
このように上海に軍慰安所をっくったのは上海派遺軍参謀副長岡村寧次、同高級参謀岡部直三郎だとされている。既存の研究によれば、岡村らの動機は占領地で頻発した中国人女性に対する日本軍人によるレイプ事件によって、中国人の反日感情がさらに強まることを恐れて、防止策をとらねばならないとしたところにあった*2。そのことについては、陸軍省副官川原直一が昭和15年(1940年)9月19日に関係軍部隊に送った文書「支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策」にも、次のようにある。
事変勃発以来ノ実情二徴スルニ赫々タル武勲ノ反面ニ掠奪、強姦、放火、俘虜惨殺等皇軍タルノ本質ニ反スル幾多ノ犯行ヲ生シ為ニ聖戦ニ対スル内外ノ嫌悪反感ヲ招来シ聖戦目的ノ達成ヲ困難ナラシメアルハ遺憾トスル所ナリ
支那事変勃発ヨリ昭和十四年末ニ至ル間ニ軍法会議二於テ処刑セラレシ者ハ掠奪、同強姦致死傷四二○、強姦、同致死傷三一二、賭博四九四ニ達シアリ
兵営(宿舎)ニ於ケル起居ノ設備ヲ適切ニシ慰安ノ諸施設ニ留意スルヲ必要トス特ニ性的慰安所ヨリ受クル兵ノ精神的影響ハ最モ率直深刻ニシテ之カ指導監督ノ適否ハ志気ノ振興、軍紀ノ維持、犯罪及性病ノ予防等ニ影響スル所大ナルヲ思ハサルヘカラス」(2巻、49,50,53頁)。
これはすでに注目されている有名な資料だが、日中戦争開始の1937年7月から1939年末までの1年5ヶ月の間に強姦致死の罪によって軍法会議で裁かれ有罪判決を受けた日本軍将兵の数が732人であるとの記述が重要である。
■ 軍人ノ変死ニ関スル件報告[第3飛行師団司令部](昭和17)?
『資料集成』には、軍人の犯罪非行にかんする資料として、中支那派遺軍憲兵隊司令部が作成した「陸軍々人軍属非行表」の昭和16年11月、12月、昭和17年2月、4月分、「陸軍々人軍属犯罪表」昭和16年12月、昭和17年1月、2月、4月分が含まれているが、慰安所、慰安婦にかかわる非行、犯罪の記述だけを切り取った資料であり、強姦事件に関する記述はとられていない。個別事件の報告の中に、昭和17年7月18日酔って深夜慰安所に行ったところ閉門していたので、帰途中国人の家に押し入り、15歳の少女を強姦した上等兵(第3飛行師団所属)が同家からの訴えで逮捕され、7月27日軍法会議にかけられ、懲役3年、一等兵への降等に処せられたことが見える(2巻、200-201頁)。慰安所行きと中国人女性への強姦とを同じレベルでとらえている兵がいることが分かるケースである。
■ 戦場生活ニ於ケル特異現象ト其対策[早尾乕雄](昭14・6)?
ところで日本陸軍の陸軍刑法には強姦致死罪は規定されていたが、強姦自体を罰する規定はなかったため、強姦罪は一般刑法上の犯罪として処罰されていた。普通刑法では法定刑の範囲が狭く、訴追は被害者の告訴を必要としたので、戦時の強姦をとりしまるには適当でなく、殺人をともなわない強姦は見逃されることも多かった、、陸軍刑法に強姦罪の規定が設けられ、これを非親告罪としたのはようやく昭和17年(1942年)の改正によってである*3。したがって日中戦争開始後、軍法会議にかけられた732人は日本兵の中国での強姦件数の中では、氷山の一角であった。上海事変に従軍した早尾乕雄軍医大尉が昭和14年(1939年)にまとめた文書「戦場ニ於ケル特殊現象ト其対策」もすでに有名な資料だが、そこにも次のようにある.
検挙サレタ者コソ不幸ナンデ蔭ニハドレ程アルカ解ラヌト思フ。憲兵ノ活躍ノナカツタ頃デ而モ支那兵ニヨリ荒サレズ殆ンド抵抗モナク日本兵ノ通過ニマカセタ市町村アタリハ支那人モ逃ゲズニ多ク居ツタカラ相当二被害ガアツタトイフ。加之部隊長ハ兵ノ元気ヲツクルニ却ツテ必要トシ見テ知ラヌ振リニ過シタノサヘアツタ位デアル(同、66-67頁)
早尾軍医大尉は、強姦の防止のために慰安所が設けられたが、それでも強姦事件はとまらなかったと述べている。
出征者ニ対シテ性欲ヲ長ク抑制セシメルコトハ自然二支那婦人ニ対シテ暴行スルコトヽナロウト兵站ハ気ヲキカセ中支ニモ早速ニ慰安所ヲ開設シタ。其ノ主要ナル目的ハ性ノ満足ニヨリ将兵ノ気分ヲ和ゲ皇軍ノ威厳ヲ傷ケル強姦ヲ防グノニアツタ。慰安所ノ急設ハ確カニ其ノ目的ノ一部ハ達セラレタ。然シアノ多数ノ将兵ニ対シテ慰安所ノ女ノ数ハ問題ニナラヌ。…地方的ニハ強姦ノ数ハ相当ニアリ亦前線ニモ是ヲ多ク見ル
日本ノ軍人ハ何故ニ此ノ様ニ性欲ノ上ニ理性ガ保テナイカト私ハ大陸上陸ト共ニ直チニ痛嘆シ戦場生活一ヶ年ヲ通ジテ終始痛感シタ。然シ軍当局ハ敢テ是ヲ不思議トセズ更ニ此ノ方面ニ対スル訓戒ハ耳ニシタ事ガナイ(同、66,72頁)
■ 軍人軍隊ノ対住民行為ニ関スル注意ノ件[北支那方面軍参謀長](昭13.6.27)?
この事態を前にして、軍の上層部は事態を憂慮し、軍紀を厳正に保つことを命ずるとともに、強姦事件をふせぐために軍慰安所の設置を推進したのである。岡村の部下として上海の慰安所設置に働いた岡部直三郎が北支那方面軍参謀長として1938年(昭和13年)6月27日に出した名高い通牒がある。あらためてその一部分を引用する。文中「性的慰安ノ設備」とは軍慰安所のことである。
諸情報ニヨルニ、…強烈ナル反胃意識ヲ激成セシメシ原因ハ各所二於ケル日本軍人ノ強姦事件カ全般ニ伝播シ実ニ予想外ノ深刻ナル反日感情ヲ醸成セルニ在リト謂フ
部下統率ノ責ニアル者ハ国軍国家ノ為メ泣テ馬謖を斬リ他人ヲシテ戒心セシメ再ヒ斯ル行為ノ発生ヲ絶滅スルヲ要ス
軍人個人ノ行為ヲ厳重取締ルト共ニ、一面成ルヘク速ニ性的慰安ノ設備ヲ整へ、設備ノ無キタメ不本意乍ラ禁ヲ侵ス者無カラシムルヲ緊要トス
この通牒が各部隊に送られ、受けとめられたさまは、歩兵第9旅団陣中日誌やなどに書き写されている*4ところからうかがえる(同、23-26,32-36頁)。後者では、
本次事変ハ大日本国民ニ課セラレタル天ノ試錬ニシテ軍ハ既ニ幾多光輝アル戦績ヲ収メ得タリト難敵ノ死命ヲ制シ能ク聖戦ノ目的ヲ達成シ得ルト否トハ寧ロ懸リテ今後作戦ニ存ス
という第2軍司令官稔彦王の訓示の次に書きこまれている。
■ 状況報告[独立攻城重砲兵第2大隊長](昭13・1・20)?
したがって、軍慰安所なるものは、日本軍の歴史の特定の段階で生まれたものであり、一般の業者が自らの営業として軍の駐屯地へ来て開いた「料理店」、「貸席」とは異なり、軍が必要とし、軍の判断で設置した施設であることは間違いない。上海の西の常州方面に向かう独立攻城重砲兵第2大隊本部の昭和12年12月の陣中日誌によると、
慰安設備ハ兵站ノ経営スルモノ及軍直部隊ノ経営スルモノノニヶ所アリテ定日ニ幹部引率ノ許ニ
概ネー隊約一時間ノ配当ナリ(同、228頁)
とある。兵站部と軍直部隊、すなわち大隊本部がそれぞれ慰安所を経営していることがわかる。
■ 慰安所ノ状況【波集団司令部](昭14.4)?
のちに広東の波集団*5司令部の「戦時旬報」昭和14年4月中旬分には次のようにある。
これによると、軍慰安所は、警備隊、憲兵隊の監督のもとに、すなわち波集団司令部の統制のもとに警備地区内において業者に開業させたものであるが、憲兵のいないところで各部隊が郷土から業者と女性を呼んで開業させている慰安所もあるようである。
■ 第二軍状況概要[第2軍司令部(中支武漢地区)](昭13・12・10)?
中支武漢地区を制圧した第2軍の昭和13年12月10日付け「第二軍状況概要」によれば、漢口及び漢陽の警備について述べた箇所で、
外出ハ警備第一主義ニ基キ当分ノ間引率外出、慰安所出人ノ為ノ外出以外之ヲ認メス慰安所ハ十一月二十五日ヨリ之ヲ開設シ切符制度ニヨリ混雑ヲ防止シ以テ皇軍ノ面目ヲ維持スルコトニ努メツツアリテ概ネ所期ノ目的ヲ達シアルモノト信ス(同、302頁)
とある。
軍が直轄経営するといっても、実際の経営主体は民間業者であった。軍が業者に依託して、女性を調達してもらい、軍の監督のもと開設させるという形が普遍的であった。このような軍直営の慰安所の他に、軍が民間業者の施設を慰安所に指定し、軍専用慰安所とする場合もあった。
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*1:原注(1)吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書、1995年、19頁。
*2:原注(2)同上、16-17頁。吉見義明・林博史編『共同研究日本軍慰安婦』大月書店、1995年、16頁。典拠は、稲葉正夫編『岡村寧次大将資料』上巻(戦場回想篇)、原書房、I970年、302頁。『岡部直三郎大将の日記』芙蓉書房、1982年、23頁。
*3:原注(3)陸軍省軍務局長「大東亜戦争間軍法会議処刑掠奪強姦等犯罪事例ニ関スル件」、別冊「日本軍ノ軍紀粛正ニ就テ」、昭和20年10月3日、永井均篇『戦争犯罪調査資料』東出版株式会社、1995年、210-212頁。
*4:歩兵第9旅団陣中日誌と歩兵第41連隊陣中日誌に転記されている
*5:原注(4)政府発表では南支23軍となっているが、吉見氏の考証で南支21軍とされている。吉見義明編『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年、214頁。
9:
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6
2 「慰安婦」の募集
「慰安婦」問題 調査報告・1999
政府発表文書にみる「慰安所」と「慰安婦」一『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』を読む 和田春樹
ソースは
>歴史の教訓とする事業
http://www.awf.or.jp/program/index.html
>「慰安婦問題」調査報告・1999
http://www.awf.or.jp/program/pdf/p007_031.pdf
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政府調査《資料集成》の概要
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/29
資料の復刻版『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』(全5巻、龍溪書舎出版)のPDFファイルは、
第1巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_1.pdf
第2巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_2.pdf
第3巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_3.pdf
第4巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_4.pdf
第5巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_5.pdf
※1)PDFのページ番号は本の頁番号とずれています。
※2)英文資料の頁番号は逆順となりますのでご注意
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
■ 2「慰安婦」の募集
慰安所の設置に当たって最大の間題は「慰安婦の確保であった。現地軍は業者を日本や朝鮮、台湾に派遺して、女性を調達させたが、そのさいあらゆる便宜の提供を日本政府関係官庁に要請し、女性の渡航に対する証明書の給付の確保、女性の輸送といったすべての面で、積極的に関与したのである。昭和12年末から大々的な調達がはじまった。
■ 支那渡航者ニ対スル身分証明番発給ニ関スル件[福岡県知事](昭12・12・15)?
女性は最初はもっぱら日本本土から集められた。昭和12年12月15日付けの福岡県知事の報告によると、11月30日に日本人の業者の勧誘で上海北四川路海軍慰安所の酌婦として渡航を求める女性2名に身分証明書が発給されている(1巻、115頁)。これは史料に墨が塗られているが、政府発表のさいにこの2名の本籍は朝鮮であることが明らかにされた(5巻、7頁)。
■ 時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件[和歌山県知事](昭和13・2・7)?
実は上海では、軍と領事館が合議して、軍慰安所設置のために協力する態勢が出来上がっていた。昭和12年12月21日の上海総領事館警察署長の長崎水上警察署長あての依頼によると、
将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中ノ処、
このたび
とある。そのさい各機関が任務を分担しているさまが資料から明らかになっている。領事館は、営業を願い出る者に対する許可、不許可の決定、慰安婦渡航のための便宜取りはからい、上海到着後ただちに憲兵隊に引き渡すことを担当し、憲兵隊が引継をうけた女性を就業地まで輸送する手続きをとり、業者と女性に対する「保護取締」を引き受けた。最後に武官室が就業場所と家屋等の準備を分担した。業者が依頼を受けて、日本と朝鮮に女性を募集しに赴いた。彼らが携帯する身分証明書の中に軍の依頼をうけて、女性を募集する者であると明記されているので、上海総領事館警察署長としては関係当局に「乗船其他二付便宜供与方」お取りはからい願いたいと求めていた。とくに「酌婦」として募集される女性については、
前線ニ於ケル貴殿指定ノ軍慰安所ニ於テ酌婦稼業(娼妓同様)ヲ為スコトヲ承諾
するとの承諾書をとることが義務づけられていた(1巻、36-44頁)。
■ 醜業帰渡支ニ関スル経緯[内務省](期日不明)?
上海の軍の要請を受けて、まず上海の徳久、神戸市の中野という2人の業者が日本へ出発した。この2人は内務省に援助を要請し、内務大臣の秘書官から紹介の名刺をもらい、かつ警務課長から兵庫県警察部長に要請をしてもらうことに成功した。内務省警務課長は12月26日
事情聴取ノ上何分ノ便宜ヲ御取計相成度
と兵庫県警察部長に電報を打った。2人は12月27日に兵庫県警察部長を訪問し、「最少限五百名ノ醜業婦」を募集したい、周旋業の許可が無いが黙認してほしい、かつ年末年始の休暇中だが渡航手続きをしてほしいと表明した。兵庫県警察部長は一般渡支者と同じように証明書を所轄警察署で発給することを指令した。陸路長崎へ赴きそこで乗船した者が約200名に達した。年が明けて昭和13年1月8日、神戸発の臨時船丹後丸で渡支した40~50名のうち、湊川讐察署で身分証明書を発行した者20名がいた(「醜業婦渡支ニ関スル経緯」、同、105-109頁)。
■ 上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件[茨城県知事](昭和13・2・14)?
また両名の依頼で内務省は「非公式ナガラ」大阪府警察部長にも協力方を依頼したことが大阪九条警察署長の13年1月8日付けの書簡から明らかである。この依頼をうけた大阪府では
相当便宜ヲ与へ既ニ本月三日渡航セシメタ
のである(同、45-46頁)。大阪からも女性が上海へ向かっている。彼女らと長崎へ向かった200名と神戸発の20名が彼らの獲得した女性であろう。
別の業者、神戸の大内は同じ時関東から東北にかけて女性の募集をおこなっていた。彼は年の初め、上海の陸軍特務機関の依頼だとして「上海皇軍慰安所」のために同僚中野とともに3000人の女性を集めるので、とりあえず500名を募集したい、1月26日には神戸から第2陣を軍用船で送ることになっていると語った。兵庫県や関西方面では県当局も了解し応援してくれているとも語ったが(同、12-13頁)、群馬、茨城、宮城の各県では、拒絶反応にあった。群馬県知事は、1月19日に
果シテ軍ノ依頼アルヤ否ヤ不明且公序良俗ニ反スルカ如キ事業ヲ公々然ト吹聴スルカ如キハ皇軍
ノ威信ヲ失墜スルモ甚シキモノト認メ厳重取締方
を警察に命じたと報告した(同、12頁)、山形県知事は1月25日に、
軍部ノ方針トシテハ俄カニ信シ難キノミナラス斯ル事案カ公然流布セラルヽニ於テハ銃後ノー般民心殊ニ応召家庭ヲ守ル婦女子ノ精神上ニ及ホス悪影響少カラス更ニ一般婦女身売防止ノ精神ニモ反スルモノトシテ
説得し、大内への協力を取りやめさせたと報告した(同、24頁)。茨城県知事は2月14日にほぼ群馬県知事の言葉を繰り返して、厳重取締方を命じたと報告した(同、49頁)。
■ 支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件〔内務省警保局長](昭和13・2・23)?
こうなって放置も出来ないと考えた内務省警保局長は昭和13年(1938年)2月23日付けで通達
「支那渡航婦女ノ取扱二関スル件」を出した。
婦女ノ渡航ハ現地ニ於ケル実情ニ鑑ミルトキハ蓋シ必要已ムヲ得ザルモノアリ。警察当局ニ於テモ特殊ノ考慮ヲ払ヒ実情ニ即スル措置ヲ講ズルノ要アリト認メラルル
しかし
募集周旋等ノ取締ニシテ適正ヲ欠カンカ帝国ノ威信ヲ毀ケ皇軍ノ名誉ヲ害フノミニ止マラズ銃後国民特ニ出征兵土遺家族ニ好マシカラザル影響ヲ与フルト共ニ婦女売買ニ関スル国際条約ノ趣旨ニモ悖ルコト無キヲ保シ難キヲ以テ
以下のように定めるとしている。慰安婦となる者は内地ですでに「醜業婦」である者で、かつ21歳以上でなければならず、渡航のためには本人が警察署に出頭し、親権者の承諾をとるべしと定めた(同、69-75頁)。21歳以上という規定は当時日本も加入していた国際条約で、未成年の婦女に醜行をさせることを禁じた規定があったためである。
■ 軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件[陸軍省副官](昭13・3・4)?
3月4日には陸軍省副官も「軍慰安所従業婦等募集二関スル件」として北支方面軍、中支派遣軍参謀長に通牒を出している。
支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為内地ニ於テ之カ従業帰等ヲ募集スルニ当リ、故ラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ、為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ、且ツー般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ
或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スル
ので、
将来是等ノ募集等ニ当リテハ、派遣軍ニ於テ統制シ、之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ、其実施ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋ヲ密ニ
せよと述べている(2巻、5-7頁)。この通牒は吉見氏が発表し、「陸軍省の関与を示したもっとも重要な文書」と言われているが、この流れの中において見られるべき資料である。業者と軍の結びつきが誇示されることはこまるし、誘拐同様のやり方をする者もこまるので、慎重にことを進めて、軍の方から憲兵や警察には了解をとるようにせよというのが通牒の内容であった。
■ 南支方面渡航婦女ノ取扱ニ関スル件[内務省警保局長](昭和13・11・8)?
ところが、戦火は華南に拡大し、慰安所の数が急速にふえてくると、中央の内務省も軍当局もますますコミットせずにはおられなくなっていった。この年10月21日には日本軍は広州を占領した。その直後の11月4日には、警保局の内部で次のような文章が起案されている。
醜業ヲ目的トスル婦女約四百名
を渡航させるように「配意」ありたしとの要請があったので、
適当ナル引率者(抱主)ヲ選定、之ヲシテ婦女募集セシメ現地ニ向ハシムル様取計
をお願いしたいという通牒の案文が起草された。資料の中に久門少佐の名刺が入っているので、彼が命を帯びて、東京の陸軍省を訪れて、徴募課長に会って、慰安婦の募集援助を要請したのである。2人が連れ立って、警保局を訪問して、警保局の協力を要請した結果、警保局も動き出したというわけである。警保局では400名を分けて、大阪100名、京都50名、兵庫100名、福岡100名、山口50名と各県に割り当てている。もとより、女性は
現在内地二於テ…醜業ヲ営ミ屠ル者ニシテ満二十一才以上
に限るとされ、本人にかならず仕事の内容を説明すべしと指示されている(1巻、95頁)。台湾総督府にはすでに依頼して、同地より300名渡航の手配が終わっているとある。南支派遺軍は台湾総督府に別個要請していたことがわかる。あるいは東京に来る前に久門少佐が台湾により、総督府に要請してきたのかも知れない。
■ 南支方面渡航婦女ノ取扱ニ関スル件[内務省警保局長](昭和13・11・8)?
11月8日、さらに踏み込んだ警保局長通牒「南支方面渡航婦女ノ取扱二関スル件」が起案され、警保局警発甲第136号として大阪、京都、兵庫、福岡、山口県知事に送られた。そこには
南支方面二於テモ…醜業ヲ目的トスル特殊婦女ヲ必要トスル模様ナルモ未ダ其ノ渡航ナク現地ヨリノ希望ノ次第モ有之事情已ムヲ得ザルヤト認メラルルニ付テハ本件極秘ニ左記ニ依リ之ヲ取扱フコトト致度
いと露骨に切り出されている。まず「抱主タル引率者ノ選定」であるが、
南支方面二於テ軍慰安所ヲ経営セシムルモ支障ナシト認ムル者ヲ…選定シ、
希望があれぱ関係方面に推薦するとして、
何処迄モ経営者ノ自発的希望ニ基ク様取運
ぶよう要請している。人数と県への割り当てはすでに示された通りだが、慰安所経営希望者が出れば、すぐに氏名、経歴、「引率予定婦女数」をただちに内務省に通知せよ、そうすれば軍部の証明書を送付するので、「婦女ヲ密ニ募集スルコト」、内地出発のさいは、「引率者氏名、渡航婦女ノ数、内地出港地名、予定月日及台湾高雄到着予定月日」を内務省に通知せよ、そうすれば、「台湾ヨリノ便船ヲ手配ス」と述べている。婦女の条件は上記の通りで、その身分証明書を県知事が発給することが求められている。ただし、
婦女子ニ対シテハ必ズ現地ニ於テハ醜行ニ従事スルモノナルコトヲ説明セシムルコト
と念を人れている(同、87-100頁)。このように募集される女性の条件(すでに醜業に従事していることと年齢21歳以上)と仕事の説明の義務は引き続き維持されているが、こんどは内務省の要請で、各県知事に業者を選定させ、業者に軍の証明書を与えて、女性を募集させ、募集ができたら、各県知事が女性に渡航の証明書を発給し、内務省が台湾軍に連絡して船をよびよせ、その軍用船が女性たちを南支へ送り込む、というような南支派遣軍と台湾軍、内務省と関係5県知事を結びつける国家的推進体制が非公然の形で整えられていることがわかる。
日本の国内からの女性の調達がこのように進められたとすると、台湾や朝鮮からの調達はどのように進められたのであろうか。総督府や道知事、末端警察はどのように反応したであろうか。この年のはじめの日本内地の警察や東北・関東の県当局が募集業者に示したような反発を示したかどうかは疑わしいといわざるをえない。総督府は東京の内務省よりはもっと中国現地の軍の要請に応える姿勢を示した可能性が高い。少なくとも朝鮮からは21歳以下の女性が渡航していることは知られており、21歳以下の女性に売春させてはならないという国際条約は植民地には適用されないという考えが日本の政府にあったこともすでに知られている*1。とすれば、総督府は内務省警保局長の通達の昭和13年2月23日通牒「支那渡航掃久ノ取扱ニ関スル件」には縛られていなかったと考えられる。
醜行ニ二従事スルモノナルコトヲ説明セシムルコト
も義務付けられていなかったかもしれない。
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3 渡航手続き関係資料が示すもの
「慰安婦」問題 調査報告・1999
政府発表文書にみる「慰安所」と「慰安婦」一『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』を読む 和田春樹
ソースは
>歴史の教訓とする事業
http://www.awf.or.jp/program/index.html
>「慰安婦問題」調査報告・1999
http://www.awf.or.jp/program/pdf/p007_031.pdf
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政府調査《資料集成》の概要
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/29
資料の復刻版『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』(全5巻、龍溪書舎出版)のPDFファイルは、
第1巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_1.pdf
第2巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_2.pdf
第3巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_3.pdf
第4巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_4.pdf
第5巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_5.pdf
※1)PDFのページ番号は本の頁番号とずれています。
※2)英文資料の頁番号は逆順となりますのでご注意
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■ 渡支邦人暫定処理ニ関スル件[内務省讐保局長](昭16・8・16)?
日本人の中国への渡航には昭和12年まで旅券が不要であった。日中戦争開始後、「不良分子ノ渡支取締」のために、渡航希望者はかならず所轄警察署長より身分証明書をうるか、正式の旅券をうるかしなけれぱならないとの外務次官通牒が昭和12年8月31日に出された(1巻、3-5頁)。それ以後2年8ヶ月のうちに中国へ渡航した者の数は59万人にも達したので、昭和15年(1940年)5月7日政府は支那渡航は当分中止とするとの閣議決定を出した。その決定はその趣旨を発表した外務省の発表文によって知られていたが*1、この決定の実施について出された要領手続が数次にわたり訂正されたのち、あらたな取扱要領が翌16年8月に決定されたさい、警保局長より閣議決定、当初の取扱方針、あらたな敢扱要領があわせて通達された。国立公文書館に所蔵されていた資料の中にこの昭和16年(194I年)8月16日の通牒が発見された(4巻、7-26頁)。
まず当初の閣議決定に付されたr取扱方針」には、「特ニ支那渡航ヲ要スルモノニ対シテハ」特例で渡航を認めることが書かれており、「定住又ハ現地勤務ノ為渡支セントスル者」が挙げられていた。行先地の領事館警察の証印のある文書、または在支軍の発給した身分証明書、または呼寄証明書を有することが必要資格であった(同、11頁)。
■ 渡支邦人暫定処理ニ関スル件[内務省讐保局長](昭16・8・16)?
15年中に出された警務部第3課の文書では、この範疇に入る者のうち、
特殊婦女(芸妓、酌婦、女給、軍慰安所雇傭員其ノ他)ハ原則トシテ証明書ヲ発給セサルコト
とあり、5月20日現在の「雇傭者数」を基準として、「欠員補充ノ為呼寄ヲ要スル場合二限リ」認めるとしていた(1巻、138頁)。内務省では、中国では1940年にはすでに新しい「慰安婦」の調達は望まれていないと判断していたのかも知れない。しかし、それは一時のことで、その後調達が必要になったと考えられ、15年の終わりに近いあたりで作成されたとみられる「『渡支邦人暫定処理ノ件』打合事項」という文書には、「特殊婦女」は「定住ノタメ」ということで処理せよとの書き込みがあった(同、141頁)。さて16年8月の「取扱要領」では、渡支身分証明書を発給する12項目の1つに
本邦ニ於テ婦女(芸妓、酌婦、女給等)雇入ノ為一時帰国シタル在支接客営業者ニ対シ与ヘラレタル在支帝国領事館警察署発給ノ証明書ニ雇入員数ヲ明記セル場合其ノ員数二相当スル被傭婦女
があげられた(4巻、15頁)。このときは一時の抑制方針が廃され、軍慰安所に女性を送ることを可能にする手続がととのえられたのである。
■ 南洋方面占領地ニ於ケル慰安所開設ニ関スル件[台湾総督麻外事部長](昭17.1.10)?
この昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争がはじまると、日本軍は香港、シンガボール、フィリピン、ビルマ、インドネシアに攻め込んだ。南方に占領地が拡大していった。そこにも軍慰安所が設置された。この新しい局面での南方占領地の慰安所への女性の確保については、新しい方式がとられた。昭和17年1月10日台湾総督府外事部長が東郷茂徳外務大臣に問い合わせを行った。
「南洋方面占領地ニ於テ軍側ノ要求ニ依リ慰安所開設ノ為渡航セントスル者(従業者ヲ含ム)ノ取扱振リニ関シ何分ノ御指示相煩度シ」(1巻、163頁)。
外務大臣は1月14日付けで回答した。
此ノ種渡航者ニ対シテハ{旅券ヲ発給スルコトハ面白カラザルニ付}軍ノ証明書ニ依リ{軍用船ニテ}渡航セシメラレ度シ
とある。このうち{ }の中に入れた部分は抹消された部分である。吉見氏はこの資料から外務省がこの種の渡航に関わらないことになり、管轄権が軍に帰属することになったとの結論を出しているが*2、外務省が関わらなくなるということの意味は、内務省と警察が関わらないということであり、警保局が支那渡航婦女について出していた条件が消えることを意味したのである。南方占領地への慰安婦の派遺はまったく軍にゆだねられ、それまでのコントロールは完全にはずされたことがわかる。
■ 南方派遺渡航者ニ関スル件【陸軍省副官〕(昭17・3・16)?
昭和17年2月末ないし3月はじめに、南方総軍から、ボルネオ行き
の要請が台湾軍司令官にあった。そこで陸密電第623号に基づき、台湾軍司令官の命令により、憲兵が調査して、3人の経営者を選定した。2人は愛媛県と高知県出身の日本人、1人は朝鮮人であった。この3人の渡航認可が3月12日付けで台湾軍司令官から陸軍大臣に求められた(2巻、203-204頁)。これに対して、大臣副官より3月16日陸亜密電188号をもって大臣の認可が返事された(同、205-206頁)。
つまり業者の渡航の許可が求められているだけで、台湾先住民、高砂族の女性50名の渡航には陸軍省の許可は必要とされていないことがわかる。台湾軍の承認だけで、以前のような県知事発行の渡支身分証明書発給のような手続なしに、彼女たちは送り出されていると考えられる。そういうことを定めたのが陸密電第623号ではなかろうか。3人の業者は50人の女性を獲得したが、その方法はどのようなものであったろうか、それにも台湾軍が何らかの便宜をはからった可能性は大である。
■ 南方派遺渡航者ニ関スル件【台湾軍参謀長〕(昭17・3・16)?
さて台湾から50人の一行が出発し、ボルネオに到着してみると、現地での実情からすれば、人員も不足であり、かつ
稼業ニ堪ヘザル者等ヲ生ズル
結果となった。なお20名の追加が必要とされ、「引率者」と言われる業者1名が部隊発給の呼寄認可証をもって台湾にもどった。そこで6月13日、
慰安婦二十名増派諒承相成度
また
将来此ノ種少数ノ補充交代増員等必要ヲ生ズル場合ニハ右ノ如ク適宜処理シ度予メ諒承アリ度
との願いが台湾軍参謀長から陸軍大臣副官あてに打電された(同、207-208頁)。これに対する返事は発見されていないが、それは認められ、以後は本省に伺いをたてなくてもよいとなったと思われる。
■ 調査報告書(Research Report) № 120(1)?
この一連の資料はきわめて重要なものである。南方地域への慰安婦の派遺が現地軍の句令部より台湾軍司令部に「土人」と指定して派遣をもとめているということは、同じように現地箪司令部より朝鮮軍司令部に朝鮮人女性を慰安婦として派遣するように要請がなされたことを容易に想像させる。この点で重要なのは、米軍資料の中にあろビルマのミッチーナーでの慰安所経営者及び慰安婦の尋問にもとづく報告である。日本人捕虜尋問報告第49号(5巻、203-209頁、これをAとよぶ)は慰安婦20名の尋間報告であり、SEAT1C尋間時報第2号(そのやや省略した引用が同、151-153頁にある、これをBとよぶ)は慰安所経営者夫婦の尋間報告である*3。これらによると、1942年(昭和17年)5月に日本軍が占領したビルマにおける「慰安サーヴィス」のための女性を募集するために、軍の依頼を受けた業者が朝鮮にやってきた(A)。しかし、この業者は独立して女性を募集したのでなく、京城の陸軍司令部が業者にビルマヘ慰安婦を連れていくことを打診したのに応じたものである(B)。当然にビルマ方面軍ないし南方軍総司令部からの直接の正式要請が朝鮮軍司令部に対してあったと考えるのが、さきの台湾軍への要請と考え合わせて自然である。だから、この業者もふくめて、朝鮮軍司令部、おそらく台湾と同じく憲兵司令部が業者を選定したと考えられる。最終的に朝鮮から出発した朝鮮人女性は703名であったので、ビルマ方面軍から700名以上規模の派遺要請があったと見るのが自然である。またボルネオヘの50人、20人の派遺について台湾軍参謀長から陸軍省に伺いが出されているのをみれば、この700人以上の派遺についても朝鮮軍参謀長から陸軍省に伺いが出されたのは当然のことであり、陸軍大臣の認可をえた旨を副官が朝鮮軍参謀長に打電しているはずである。
朝鮮軍は業者を選定し、募集を行わせたのであるが、そのさい昭和13年の日本国内での募集にさいして警保局がつけたような条件がないことは明らかである。京城で料理店を経営していた夫婦が憲兵司令部の打診に応じて、この仕事を引き受け、22人の朝鮮人女性を勧誘した。資料Bによると、彼らは両親に
300円から1000円を払って、買い取った、
娘達は彼らの「単独の財産」になったと言っているが、これは前渡し金で縛ったということであろう。年齢は19歳以上であったと陳述しているが、女性たちの陳述では、彼によって募集された朝鮮人女性の募集時の年齢は17歳1名、18歳3名、19歳7名、20歳が1名、23歳以上が8名である。12名が21歳以下である。
では、「慰安婦」をもとめていることを明瞭に説明することはなされただろうか。女性たちの供述に基づく資料Aによると、次のようにある。
この『役務』の性格は明示されなかったが、病院に傷病兵を見舞い、包帯をまいてやり、一般に兵士たちを幸福にしてやることにかかわる仕事だとうけとられた。これらの業者たちがもちいた勧誘の説明は多くの金銭が手に入り、家族の負債を返済する好機だとか、楽な仕事だし、新しい土地シンガポールで新しい生活の見込みがあるなどであった。このような偽りの説明に基づいて、多くの娘たちが海外の仕事に応募し、数百円の前渡し金を受け取った(5巻、203頁)
業者にこのように欺かれたと言っているのだが、朝鮮軍司令部が明瞭に慰安婦の仕事を説明するよう指導していなければ、このいわゆる「就職詐歎」に対しても軍の責任は免れない。もしも朝鮮軍司令部が承知の上で、慰安婦にするということを隠したまま、業者に21歳以下の娘を募集させたのなら、これは軍も関与した欺蹴による募集であり、合意によらざる強制であるということになる。このあたりは断定する資料がない。
朝鮮軍司令部は渡航手続きをおこない、客船をチャーターして輸送するまでした。台湾軍の例からして、703人の朝鮮人の女性については、渡航身分証明書などは出されていないであろう。数量としての扱いである。7月10日釜山から4000トンの客船に乗って、703人の朝鮮人女性と90人ほどの日本人男女の一行が出発した。船は7隻の船団を組んで進んだ。台湾に寄港したさい、22人のシンガボール行きの女性が乗り込んだ。あるいはボルネオ行きの追加の20人かもしれない。シンガボールで一行は別の船に乗り換え、8月20日ラングーンに入港した。ラングーンで20人から30人のグルーブごとに引率者がついて、ビルマの各地へ赴いたのである(資料B)。
この一行の中にいたことを証言しているのは大邱出身の文玉珠ハルモニである。彼女は1940年、16歳の時に憲兵によびとめられて、満州の東安省に連れて行かれて、慰安婦にされ、翌年逃げ帰ってのち、キーセンとなっていた。1942年東安省で慰安婦であった仲間の女性から、南方の日本軍の食堂で働こうと誘われて、釜山へ行き、約束の旅館に入ると、朝鮮人の業者マツモトがいた。彼のもとに、大邱から来た17人が集まったのである。その中に東安省で慰安婦であった仲問が5人いた。彼女は7月10日釜山から出航した総勢は150人から200人ほどだったといい、703人とは食い違いを見せている。船も6000トンほどの貨物船だというが、7隻の船団を組んだという点は一致している。文玉珠ハルモニと東安省の仲間も慰安婦になるという説明は受けていなかったのだが、大邱組の他の娘たちはまったく知らされていなかったと述べている*4。文玉珠ハルモニの証言は、文書資料とほぼ合致しており、1942年7月10日釜山出航組の場合、業者が慰安婦の募集だと説明しないままである場合が多いことを裏付けている。
太平洋戦争期の朝鮮、台湾からの慰安婦の調達は、朝鮮軍、台湾軍が主体となって、憲兵が業者を選定して、募集させ、軍用船で送り出したのである。
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4 渡航証明書発給資料の検討
「慰安婦」問題 調査報告・1999
政府発表文書にみる「慰安所」と「慰安婦」一『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』を読む 和田春樹
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資料の復刻版『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』(全5巻、龍溪書舎出版)のPDFファイルは、
第1巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_1.pdf
第2巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_2.pdf
第3巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_3.pdf
第4巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_4.pdf
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■ 渡支取締ニ関スル件〔台南州知事〕(昭14・1・20)~〕(昭15・2・26)?
『資料集成』の中には台湾の各州知事が各月の身分証明書並びに外国旅券発給状況を報告したものが相当程度残っている。渡航目的調べの中に「慰安所関係」の項があり、「慰安婦」とされる渡航者の数を知ることが出来る。かつこの資料には民族別の分類がされている。行き先別に北支方面、上海方面、南支方面に分けられているが、概して慰安所関係での北支方面はほぼゼロであり、上海と南支がほとんどすべてであり、一括してみてさしっかえない。
台北州「慰安所関係者」(1巻、171-218頁)
内地人 朝鮮人 本島人 昭和13年11月 144 51 126 12月 126 19 10 14年1月 59 8 8 2月 179 4 45 3月 12 0 1 4月 25 5 3 5月 26 3 12 6月 11 4 12 7月 16 22 3 8月 8 1 0 9月 9 20 1 10月 16 14 0 11月 9 54 8 12月 9 2 0 以上計 649 207 229 15年1月 2 1 0 16年7月 0 9 0
新竹州「軍慰安所ノ酌婦及雇人」「慰安所就業」
(同、219-256頁)
内地人 朝鮮人 本島人 昭和13年11月 19 29 1 12月 31 22 0 14年1月 0 0 3 2月 3 0 3 3月 2 1 O 7月 1 4 4 8月 6 5 0 9月 1 1 0 10月 1 4 0 11月 0 20 0 12月 1 0 0 以上計 65 86 11 15年1月 0 2 0
台中州「慰安所従業員」(同、257-300頁)
内地人 朝鮮人 本島人 昭和13年12月 2 57 16 14年1月 0 0 0 2月 0 3 1 3月 0 3 O 4月 0 1 O 5月 0 0 7 6月 0 0 O 7月 0 5 O 9月 O 10 0 11月 1 53 0 12月 0 11 0 以上計 3 143 27 16年7月 0 7 0
高雄州「軍慰安所従業員」「軍慰安所関係」
(同、301-354頁)
内地人 朝鮮人 本島人 昭和14年1月 32 3 0 2月 46 4 53 3月 58 0 17 4月 2 12 O 5月 7 1 1 6月 3 0 15 7月 17 0 0 8月 17 0 0 9月 11 1 20 1O月 8 14 1 11月 0 16 7 12月 17 2 3 以上計 218 53 117 15年1月 0 1 15 16年7月 15 0 5
台南州「慰安所経営」「慰安所」「慰安所炊事婦」
(同、407-420頁)
内地人 朝鮮人 本島人 昭和13年12月 1 22 0 14年7月 0 11 0 11月 2 39 0 以上計 3 72 0 15年1月 0 2 0
以上5州からの昭和13年11月から14年12月までの14ヶ月の出国者中、慰安所関係は内地人が総数938人、朝鮮人が561人、台湾人が384人である。その合計は1883人である。1ヶ月平均と比率を出せば、内地人が67.0人、49.8%、朝鮮人が40.1人、29.8%、台湾人が27.4人、20.4%である。さて同じ資料が朝鮮総督府にもあるはずだが、それがまったく出てこないのは不思議である。この点で吉見氏が総督府の警務局長の作成した昭和16年下半期と昭和17年上半期の渡支身分証明書発給状況調べを発表しているので*1、それを見ると、慰安所関係が取り出されていない。昭和16年下半期分では、芸娼妓が内地人21人、朝鮮人が381人である。昭和17年上半期では、それぞれ、32人、286人である。これを総計すると、内地人が53人に対して朝鮮人は667人である。行き先で分ければ、北支方面行きが内地人41人、朝鮮人が489人で圧倒的で、中支と南支方面行きを合わせて、内地人は12人、朝鮮人は178人である。1ヶ月平均と比率を出せば、内地人が4.4人、7.4%、朝鮮人が55.6人、92.6%である。これは時期的にすこし先の数字だが、前の台湾での証明書発給状況と合わせて考えてみると、その時期に朝鮮、台湾から証明書を得て慰安婦として中国へ渡った者の中では朝鮮人がもっとも多かった。特に華北については朝鮮人が圧倒的に多かったと言える。華中華南については、日本人が朝鮮人の倍近くいて、台湾人も朝鮮人についでいるのである。
しかし、この他に日本本土で証明書をとった人々がいるのであり、そこでは当然に内地人の)比重が圧倒的なはずだから、慰安所が中国で大々的につくられはじめたこの時期に中国へ慰安婦としてもっとも多く送り込まれたのは日本人だったと考えられる。
■ 幹部ニ対スル衛生教育順序[北支那派遺軍甲集団軍医部】(昭15・11)?》
慰安婦の民族別を考えるさいに、これまで吉見氏らが注目してきたのは、性病に感染した兵士が相手にした女性についての民族別データである。『資料集成』には2つのデータがある。第1は、「北支派遺多田部隊冨塚部隊副島隊調査」で、昭和15年1月のものである。「対手女国籍別調査」として、日本人1427人(26.3%)、朝鮮人2455人(45.3%)、「支那人」1535人(28.4%)という数字が出ている。
本事変ニ於テ半鳥婦人ノ進出ハ活発デアル丈ソレ病源ヲ有スルモノガ多イ
というコメントがついている(2巻、343-346頁)。
■ 支那事変ニ於ケル軍紀風紀ノ見地ヨリ観察セル性病ニ就テ[大本営陸軍部研究班](昭15・10)?
第2は大本営陸軍部研究班の「支那事変二於ケル軍紀風紀ノ見地ヨリ考察セル性病二就テ」(昭和15年10月)である。ここでは感染地別に、北支8628人、中支5965人という数字があげられ、相手女別という点で、日本女2418人(16.4%)、朝鮮女4403人(29.8%)、「支那女」3050人(20.7%)、不明不祥4884人となっている。ここでも
朝鮮女ノ活躍ハ他ヲ圧倒シアリ将来戦ノ参考タリ得ベシ
とのコメントがある(2巻、77-8頁)。はじめは日本人ばかりであった慰安婦の中に朝鮮人の数が急速に増えてきたということがこの2つの報告の印象を規定しているのだろう。しかし、このデータから、吉見氏らが「慰安婦でもっとも多いのは朝鮮人であり、これに次いで中国人が大きな比重を占めていた」、「中国戦線では、日本人ではなく、最も多いのは朝鮮人と中国人であったことは確実である」との結論を出すことは強引である*2。この資料はあくまでも性病に感染した慰安婦が朝鮮人と中国人に多いということを意味しているに過ぎないのである。南方への慰安婦の渡航は警察署の証明書なしにおこなわれたのだから、この種の渡航統計はのこらないようになっている。ここでの比率は別個の資料によって判断しなければならない。
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5 居留民職業別人口統計の検討
「慰安婦」問題 調査報告・1999
政府発表文書にみる「慰安所」と「慰安婦」一『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』を読む 和田春樹
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政府調査《資料集成》の概要
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資料の復刻版『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』(全5巻、龍溪書舎出版)のPDFファイルは、
第1巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_1.pdf
第2巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_2.pdf
第3巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_3.pdf
第4巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_4.pdf
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■ 昭和十三年在南京総領事館蕪湖分館警察事務状況[同讐察署長報告摘録](昭13)?
外務省が所蔵する居留民職業別人口統計と領事館警察史の中の在留邦人職業調べは、上海からはじまって華中に慰安所がひろがっていくさまをうかがうのによい資料である*1。朝鮮総督府警務局の『華中、華南、北中米居住の朝鮮人概況』(昭和15年)も重要な資料であるが、これは楊昭全等編『関内地区朝鮮人反日独立運動資料▼編(▼=匚の中に惟)』(遼寧民族出版杜、1987年)に収録されている。上海については、昭和13年の慰安所が約24、女性数は約450人であったという数字をすでに出した。昭和17年9月のデータによると、「特種慰安所」16、酌婦数140人だとある(3巻、12,20頁)。なお昭和12年には朝鮮人の陸軍慰安所経営者は1名、女給が76名であった。他には外国人妾20名、密売淫20名の記述しかない(1巻、462頁)。
ところで、朝鮮総督府警務局の『朝鮮人概況』によると、昭和11年末の上海の朝鮮人数は1797人であったが、13年から急増し、昭和15年には7855人に増えている。この年朝鮮人慰安所経営者は12人、朝鮮人酌婦は527人、同娼妓は17人、同芸妓は39人である*2。これだけの慰安婦は昭和17年にはどこへ行ってしまったのだろう。軍隊について南方へ移動したのだというのが唯一考えうる答えである。
■ 杭州在留邦人営業種別並二投資額一覧表送付ノ件[在杭州領事代理](昭14.2.24)?
上海のすぐ南の湾の奥にある杭州については、昭和13年領事館警察事務状況によれば、杭州に「軍隊慰安所」が4つあった(1巻、476頁)。さらに昭和14年2月24日付けの杭州領事代理の報告で慰安所経営者が3人あがっている。関門楼、長生楼、鶴屋の3軒である(1巻、625-627頁)。
次の蘇州には昭和14年末に朝鮮人慰安婦13人がいた*3。ついで揚子江をさかのぼると、まず出てくる鎮江、揚州、丹陽については、昭和13年の慰安所数を総領事館警察事務状況が教えている、『資料集成』にはもれていて吉見資料集に人っている鎮江分署の資料で、鎮江には慰安所が8、揚州、丹陽にはそれぞれ1あった*4。揚州の慰安所は昭相13年12月末に開設されたが、軍直営で、治安維持会を通じて集めた中国人60人、内地からの30人、朝鮮半島からの20人、総勢110人の慰安婦がいたという*5。これは相当に巨大な慰安所である。
■ 衛生業務要報[第15師団軍医部](昭18・1、18・2)?
つぎは南京であるが、ここについては、上記のデータがない。軍の第15師団軍医部の衛生業務要報の昭和18年2月の分に、南京の慰安婦「平均一日現在人員」が437人、蕪湖のそれが97人、金壇のそれが11人、鎮江のそれが39人、巣県のそれが34人、漂水のそれが10人とある。検診のべ人員を民族別に分けた数字も一緒にあるが、以下のとおりである(3巻、220-221頁)。
内地人 朝鮮人 中国人 南京 948人(60.9) 51人(3.3) 557人(35.8) 蕪湖 114(32.9) 93(26.9) 139(40.2) 金壇 0 19(46.3) 22(53.7) 鎮江 12(7.7) 0 143(92.3) 巣県 0 11(10.8) 91(89.2) 漂水 O 0 30(100.0) 計 1074(48.2) 174(7.8) 982(44.0)
南京の437人という数から考えると、南京の軒数は20軒一23軒ぐらいであろう。南京の慰安婦は日本人、中国人がほぼ半々であるのに、蕪湖では中国人が多く、日本人は第2位におち、朝鮮人が4分の1まで増えてきている。さらにその傾向はより小さな町である金壇では中国人と朝鮮人が半々で、鎮江、巣県、漂水ではほぼ全員が中国人となっている。
■ 本邦人職業別表送付ノ件〔在漢口総領事](昭13・12・3)?
蕪湖の在留邦人の職業については職業別人口統計がある。そこに慰安所のデータがある(1巻、607-624頁)。
内地人(戸数) 同(女) 朝鮮人 (戸数) 同(女) 昭和14年4月 4 50 2 26 6月 4 48 2 22 7月 4 46 2 16 8月 4 31 2 30 9月 6 32 1 30
男は経営者で、女は「慰安婦」と考えてよい。この統計には中国人は入ってこない。昭和14年8月になると、日本人と朝鮮人はほぼ同数となっている。軍医の検査結果の数字と少し合わない、
南京の手前、鎮江の対岸の常州には昭和12年3月に駐屯大隊の慰安所使用規定があり、かなり大きなものが1つあったようである。日華会館付属建物及び下士官、兵棟に区分されていた。単価が「支那人」、「半島人」、内地人ごとに決められていたので、ここには3種の女性がいたことはたしかである(2巻、256,244頁)。
長江をさらに遡っていくと、安慶がある。ここに昭和14年朝鮮人慰安所経営者2人が知られ、朝鮮人慰安婦109人がいたことが知られる*6。さらに行くと九江があり、そこから少し南下したところに南昌という市がある。九江の領事館が南昌をも管理していた。九江の在留邦人職業別統計は昭和13年11月1日現在、14年2月1日現在、3月1日現在、4月1日現在、5月1日現在、6月1日現在、8月1日現在、9月1日現在の分が発見されている(1巻、569-600頁)。ここに含まれる「慰安所」と「特殊婦人」の項を整理すると、以下の通りである。
慰安所経営者戸数
内地人 朝鮮人 計 昭和13年11月 15 9 24 昭和14年2月 8 7 15 3月 9 10 19 4月 9 6 15 5月 11 11 22 6月 10 11 21 8月 8 5 13 9月 7 5 12
「特種婦人」「特殊婦人」数
内地人 朝鮮人 台湾人 昭和i3年11月 107 143 0 昭和14年2月 54 67 0 3月 76 123 0 4月 93 95 0 5月 125 104 0 6月 125 99 0 8月 90 68 0 |9月| 98| 50| 0
日本人と朝鮮人の別をみると、相当に変動があることが分かる。最初は朝鮮人の方が多かったが、初夏から秋に向けて、日本人の方が多くなっている*7。
南昌については昭和14年8月1日現在と9月1日現在の分が発見されている(同、601-606頁)。それは以下の通りであり*8、こちらは圧倒的に朝鮮人が多い*9。
「特種慰安所」経営者戸数
内地人 朝鮮人 計 昭和14年8月 3 8 11 9月 3 8 11
「特種婦人」数
内地人 朝鮮人 昭和14年8月 8 94 9月 11 100
さらに長江をのぼると漢口と武昌がある。漢口に総領事館がある。そこからは昭和13年11月30日現在の職業別表が発見されている(同、561-564頁)。それによると、「芸妓、酌婦、娼妓、其他」が漢口では150人、武昌では245人である。
■ 特別報告中軍人変死ノ件報告[第13師団長〕(昭17・3)?
昭和14年2月3日付けの漢口総領事の報告によると、同年1月付けで漢口には軍慰安所の設置許可を兵站憲兵隊と領事館からえたものが20軒であった。営業は「既ニ飽和状態ニ在リ」といわれている(1巻、125-126頁)。しかし、この年12月漢口に駐屯するにいたった香川県の天野部隊は軍慰安所開設のため婦女50名を求め、そのために婦女をあつめ、渡支許可を願い出た者があり、許可が与えられている(同、131-133頁)。武昌では昭和14年末ごろ朝鮮人慰安婦は256人、朝鮮人の慰安所経営者27人という報告がある*10ので、朝鮮人慰安婦が急増していることが分かる。
武昌の近くの葛店と華容鎮には森川部隊の慰安所が昭和14年11月にそれぞれ第1、第2と第3、第4の4つの慰安所をもっていた(2巻、335-336頁)。さらに北の応山には昭和14年6月に特殊慰安所があったが、
慰安婦少ク只情欲ヲ満スニスギズ
とある(2巻、318頁)。さらにその先の岳陽(岳州)にも昭和14年朝鮮人慰安婦49人がいた*11。さらに揚子江上流の湖北省宜昌には、昭和17年1月現在、市内平和里に「軍特殊慰安所」たる「あやめ」本館があり(2巻、143頁)、また二馬路に「慰安所」たる「一力」支店があり、ここには朝鮮人慰安婦がいた(同、147頁)。
■ 金原節三業務日誌?
以上のデータを総合すると、昭和13-14年ごろ、次のように慰安所があったことになる。上海約24、杭州4、鎮江8、常州1、揚州1、丹陽1、南京約20、蕪湖6、九江22、南昌11、漢口20、葛店2、華容鎮2、応山1、宜昌2、これに少なくとも蘇州1、安慶2を加えることができる。さらに武昌の数字を漢口の数宇と同じとして、約20を加えると、全部では148である。これは揚子江ぞいにある慰安所だけであって、それもすべてではない。中支全体ならこの数でとどまるものではないだろう。金原節三業務日誌によれば、昭和17年9月3日の陸軍省の課長会議で、恩賞課長が各地の「慰安施設」の数を上げた中で、中支は140という数字を挙げている*12。
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*1:原注(11)同じような試みをした先行研究は、カン・ジョンスク「日本軍慰安所の地域的分布とその特徴一日本軍官文書の分析を中心に」(ハングル)、韓国挺身隊問題対策協議会真相調査研究委員会編『日本軍「慰安婦」問題の真相』歴史批評社、1997年、141-223頁がある。
*2:原注(12)楊昭全等編『関内地区朝鮮人反日独立運動資料▼編』(▼=匚の中に惟)遼寧民族出版杜、1987年、15,20頁。
*3:原注(13)同上、71頁。
*5:原注(15)設置に関係した者の回想にもとづく秦郁彦の研究、『昭和史の謎を追う』下、文芸春秋、1993年、327頁。
*6:原注(16)楊昭全等編、前掲書、65-66頁。
*7:原注(17)楊昭全等編、前掲書、67頁には、朝鮮人慰安婦は89人とある。
*8:原注(18)カン・ジョンスク、前掲論文、169頁にはミスがある。
*9:原注(19)楊昭全等編、前掲書、69頁には、朝鮮人慰安婦は165人とある。
*10:原注(20)同上、50頁。
*11:原注(21)同上、70頁。
14:
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6
6 各地の慰安所
「慰安婦」問題 調査報告・1999
政府発表文書にみる「慰安所」と「慰安婦」一『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』を読む 和田春樹
ソースは
>歴史の教訓とする事業
http://www.awf.or.jp/program/index.html
>「慰安婦問題」調査報告・1999
http://www.awf.or.jp/program/pdf/p007_031.pdf
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政府調査《資料集成》の概要
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/29
資料の復刻版『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』(全5巻、龍溪書舎出版)のPDFファイルは、
第1巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_1.pdf
第2巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_2.pdf
第3巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_3.pdf
第4巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_4.pdf
第5巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_5.pdf
※1)PDFのページ番号は本の頁番号とずれています。
※2)英文資料の頁番号は逆順となりますのでご注意
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■ 金原節三業務日誌?
領事館のないところでは、華中のような資料がなく、もっぱら軍の陣中日誌が資料となる。南支方面では、まず広東である。広東市とその周辺については、すでにみた波集団、21軍の資料がある。昭和14年4月にこの軍慰安所にいる慰安婦数は1000名だと報告されている。しかし、金原節三業務日誌によれば、昭和14年4月15日の課長会議で、松村波集団軍医長が兵100名に女1名の割合で、「慰安隊ヲ輸入」し、「一、四○○~一、六○○」人にのぼるとしている*2。となれば、こちらの数字の方が正しいのだろう。
汕頭には昭和16年慰安所は3であった(2巻、116頁)。香港には、昭和17年5月の海軍用の慰安施設として、海軍会館(旧英京飯店)、海軍将校倶楽部(六国飯店)、海軍慰安所4軒、海軍指定食堂5軒があったという(同、224頁)。この他に陸軍の慰安所があったのである。
フィリピン・マニラ
■ 調査報告書(Research Report) № 120(1)?
「大東亜戦争」開戦後、南方諸地域にも、慰安所がつくられた。フィリピンでは、マニラに慰安所があったという供述を米軍の捕虜になった兵士がしている。朝鮮人、フィリピン人、中国人の女性が10人いる慰安所が5ないし6軒あったとの供述がある(5巻、英文、32頁)。マニラの慰安所のうち、いくつかは軍の管轄下にあり、そこには日本人と朝鮮人がいたという供述もある(同、111頁)。このような供述は部分的な印象に基づくもので、軒数については信頼度が低い。より重要な資料としては、連合軍翻訳通訳局調査報告120(1)「日本軍における娯楽」の付録として、1944年2月7日付けのマニラ慰安所にかんする警察報告が収録されている。そこでは25軒があげられている。そのうち慰安所12軒、兵下士官用5軒、将校用特別クラブ4軒、兵下士官用料理店3軒、不明1軒である。女性がいないのは、将校用特別クラブ1軒と兵下士官用料理店3軒である。慰安所は2号から8号まであるが、慰安所というものはみな軍慰安所であろう。兵士下士官用5軒も慰安所であろう。マネージャーは日本名のもの22、朝鮮名のもの2である(同、163-166頁)。
フィリピン・ルソン島
■ 調査報告書(Research Report) № 120(1)?
北部ルソン島では、バヨンボンに慰安所があった(3巻、285-286頁)。中部ビサヤ地方では、マスバテ島に軍人倶楽部という慰安所があった(同、149-151頁)。パナイ島のイロイロ市に、第1慰安所と第2慰安所の2つの慰安所があった。昭和17年の後半に、前者には12人から16人、後者には10人から11人の慰安婦がいた。前者には16歳の者が3名、17歳の者が1名、18歳の者が3名含まれていた(同、45-103頁)。同島のセブには、慰安所を経営する日本人業者が1名いた(同、202頁)。レイテ島のタクロバンには、慰安所が1軒あったが、経営者はフィリピン人の女性で、慰安婦9名は全員フィリピン人であった(同、248頁)。同島のブラウエンにも慰安所が開設された。慰安所規則が昭和19年8月付けでできているので、そのころの開設と思われる(5巻、英文、150頁)。
フィリピン・ミンダナオ島
■ 尋問調書(Interrogation Peport) № 31?
南部ミンダナオ島のブツアンに昭和17年6月フィリピン女性3名で
慰安所ヲ開設シ兵ノ慰安ニ供シツヽ在リ将来女ノ増員ヲ計圃シツヽ在リ
と報告されている(3巻、131頁)。
また同島のカガヤンには、昭和18年2月14日に下士官、兵用として
第三慰安所ヲ開業セシム
とある。
比島人慰安所ノ料金ニ関シテハ従前通リトス
とあるが(同、234-235頁)、これはフィリピン人女性、またはフィリピン人経営の慰安所の意味であろう。おそらく第1、第2慰安所が軍慰安所としてすでにあるのであろう。同島中央のラナオ湖のほとりのダンサランにも慰安所があった(同、184,186頁)。また同島のダヴァオについては、慰安所は軍の内部に設置されていて、朝鮮人、台湾人、それにフィリピン人の慰安婦がいたとの日本軍捕虜の供述がある(5巻、英文、42頁)。
以上からフィリピンの慰安所として知りうるのは、30である。フィリピンの慰安所はマニラをのぞけぱフィリピン人の慰安婦が多いようである。
ビルマ・マンダレー
■ 「マンダレー」駐屯地動務規定[第5野戦輸送司令部](昭20・1・2)?
ビルマでは、中部の要衝マンダレーについてくわしい文書資料がある。昭和18年10月31日の駐屯地業務規定の別表によると、慰安所は芬乃家、北海楼、ビルマ舘、楽天地、喜楽荘の4軒あった(4巻、317-318頁)。ところが昭和20年1月2日の駐屯地勤務規定の別紙11号によると、軍指定慰安所が5、軍准指定慰安所が4となって、倍増している。軍指定慰安所は、梅乃家(内地人、将校慰安所)、万来家(広東人)、東亜倶楽部(「半島人」)、朝日倶楽部(「半島人」)、菊園(「半島人」)である。5軒のうち3軒が朝鮮人である。軍准指定慰安所は、楽天地(ビルマ人)、ビルマ舘(ビルマ人)、喜楽荘(ビルマ人)、新緬舘(ビルマ人、ビルマ兵補専用)であり、すべてビルマ人である(同、332-333頁)。
ビルマ・メイミョー
■ 調査報告書(Research Report) № 120(1)?
マンダレーのすぐ北のメイミョーについては、米軍資料の中にある報告に記述がある。そこには昭和17年末に8軒の慰安所があった。うち2軒、「第1フルサ」と「スイコーエン」は日本人女性からなる慰安所であった。後者は将校慰安所であった(5巻、英文、152頁)。
ビルマ・ミッチーナー
■ 調査報告書(Research Report) № 120(1)?
マンダレーから北部前線のミッチーナーまでの鉄道沿線の日本軍駐屯地のほとんどすべてに慰安所があり、通常朝鮮人と中国人の慰安婦がいたとの捕虜供述がある(同、英文、174頁)。
ミッチーナーの状況については、同じ報告がくわしい。昭和18年1月には、ここに2つの慰安所があったが、あらたに朝鮮から到着した一行が第3の慰安所を開いた。この段階で22人の朝鮮人女性のいる「キョーエイ」、20人の朝鮮人女性のいる「キンスイ」、広東から集められた中国人女性21人がいた「モモヤ」の3つの慰安所が存在するようになったのである(同上、これは資料Bである)。慰安婦たちの供述では、他に「バクシンロウ」という慰安所があり、のちに「キンスイ」に合併されたという(同、英文、204,207頁。こちらは資料Aである)。そうなれば4つの慰安所ということになる。慰安婦の総数は63人とされる。前線には日本人女性はいなかったとの証言があるが、浅野豊美氏の調査によれば、ミッチーナーからさらに奥地の中国領内の2つの前線基地拉孟と騰越にも慰安所があり、前者には朝鮮人を含む24人の慰安婦がいて、後者では日本人13人、台湾人3人、朝鮮人2人、計18人の慰安婦が玉砕後に保護されたのである*4。
先の資料Bには、昭和17年8月20日にラングーンに上陸した703人の朝鮮人女性が20人から30人のグループに分かれて、ビルマの各地に向かったとの記述がある(同、英文、151頁)。各グルーブが1軒の慰安所を開くことになるのだから、23軒から35軒までの慰安所が開かれたということになる。この17年8月到着組はマンダレーには行っていない。メイミョーでは一時慰安所を開いたグループがあった。ということになれぱ、マンダレーの8軒、メイミョーの7軒、ミッチーナーの2軒をかりに30軒に加えただけでも47軒で、ビルマの慰安所総数は50軒を越していることは疑いない。
ビルマ・キャウタン
■ 軍政規定集第三号[馬来軍政監部](昭18・11・11)?
マレー半島では、昭南市と改称されたシンガポール、その背後のジョホール州、ネグリセンビラン州には、昭和17年8月25日当時、慰安婦194人がいた(3巻、168頁)。ネグリセンビラン州のセレンバンについては、慰安所が昭和17年4月3日に開設されたという記述がある(2巻、384頁)。同州のクワラピラ・バハウにも昭和17年4月慰安所があったことが知られる(同、417頁)。さらにマラッカにも昭和17年3月に慰安所があったことが知られ(同、369,371頁)、そのうちの1つマラッカ軍人倶楽部(倫敦倶楽部)が同年9月8日閉鎖されたことが知られた(3巻、177頁)。マレー半島の日本軍は昭和I8年11月11日に馬来軍政監部名で「慰安施設及旅館営業取締規程」を定めているが、慰安施設の経営者は邦人に限定するが、
従業員ハ為シ得ル限リ現地人ヲ活用シ邦人ノ使用ハ最少限度ニ止ムルモノトス
スマトラ島
■ 調査報告書(Research Report) № 120(1)?
《SEAT1C尋間時報第2号》
スマトラ島では、北部のベラーワンに慰安所があり、現地の女性2名と中国人6名がいたとの捕虜の供述がある(5巻、英文、153頁)。
ジャワ島・スラバヤ市
■ 野戦高射砲第四五大隊第一中隊陣中日誌(昭17・5・13、16)?
ジャワ島では、スラバヤ市について資料がある。昭和17年4月4日より歩兵第47連隊南兵営東側に「慰安場」が開設される、「慰安公娼」総数は「目下四○名」であるとある(2巻、387頁)。このとき北慰安所がすでに開設されていたと考えられる(同、390頁)。慰安婦の中には朝鮮人がいたとの記述がある(3巻、109頁)。5月14,15日に南慰安所が一時閉鎖されたあと(2巻、389頁)、5月16日、南慰安所には「日本慰安婦」13名が配置され、再開された。同時に第2将校倶楽部にも「日本慰安婦」10名が配置されている。後者の慰安婦は日本人と「現住民」とからなっていた(3巻、111頁)。このような閉鎖と再開は慰安婦の性病が問題となったためである。慰安所は3カ所である。
ジャワ島・スマラン
ジャワ島中部のスマランには、日本軍がオランダ人抑留女性を強制して慰安所を開設したことが知られている。昭和19年2月軍関係者は35人のオランダ人女性を集め、4つの慰安所を開設した、この関係者は戦後戦犯裁判で裁かれ、1人が処刑された*6。
ジャワ島・バタヴィヤ市
■ 独立自動車第三九大隊第四中隊陣中日誌(昭17・8・18、24)?
バタヴィヤ市(現在のジャカルタ)には、昭和17年8月16日第6慰安所が開業している。これまでに5つの慰安所がすでにあるということである。この新しい慰安所の慰安婦は朝鮮人7名であった(3巻、156頁)。
スムバワ島・ロボック
■ 第四八師団戦史資料並終戦状況[師団長](昭21・7・5)?
ジャワ島につながるスムバワ島のロボックには慰安所があり、朝鮮人の業者と慰安婦あわせて、終戦時に約50人がいたと第48師団長の報告にある(同、502頁)。
セレベス島
■ 南部セレペス賣淫施設(慰安所)調書〔セレペス民政部第2復員班長](昭21・6・20)?
セレベス島の慰安所についてはオランダ軍軍法会議検察官が要求した結果作成された「南部セレベス売淫施設(慰安所)調書」がくわしい。マカッサル市内の第1施設から第3施設までの他、全部で21の慰安所があったことが報告されている。市内の慰安所の慰安婦数は約30,40,20人と報告されている。この3ヶ所については「種族」別が書かれていず、朝鮮人、台湾人、日本人がいたことが想像される。のこりの18施設のうち14は慰安婦が10人以下のものであるが、18施設すべてセレベス島住民を慰安婦にしているものである。慰安婦総数は224人である。慰安所の中には責任者として陸軍中佐、海軍大尉があげられ、
部隊ニ於テ経営ス、
責任者が
募集シ経営セリ
というものと、
経営者ハー般邦人トシ軍司令部ニ於テ監督ス
原住民…ノ経営ニ依ルモノニシテ警備隊長之ヲ監督ス
というものがあった。報告書は、ひとしく
売淫婦ハ本人ノ希望ニ依リ営業セシム
とか、
希望者ヲ募集シ
とか述べているが、これは軍法会議の追及を逃れるための弁解であった可能性が高い(4巻、354-360頁)。
ボルネオ島
ボルネオ島には、すでに述べたように、昭和17年3-6月に台湾から慰安婦70名が南方軍の要請で送り込まれている。
合わせると
こうしてフィリピン、ビルマ、オランダ領インド地方を合わせると、120の慰安所の存在が知られる。金原節三業務日誌の昭和17年の数字では南方100ヶ所となっている*7。
南海方面 ソロモン諸島
■ 金原節三業務日誌?
南海方面ではソロモン諸島のラバウルについて、多くの捕虜の供述がある。慰安所の数については2とか、3とかいう者(5巻、英文、23,113頁)と20という者(同、英文、78頁)に分かれている。慰安婦の民族別では、日本人と朝鮮人からなるという者と中国人、朝鮮人、インドネシア人からなるという者がいて、20という者は全員日本人だと言っている。供述は暖昧であり、かつ部分的な印象である。ラバウルの海軍慰安所についてはかなり詳細な資料がある。東ラシュン荘、タケイシ隊、北ラシュン荘、第1トキワ荘、第2トキワ荘、第3トキワ荘という6の慰安所があった。うちタケイシ隊と第2トキワ荘には日本人と朝鮮人の慰安婦がいたのである(同、123頁)。となれば、当然ながら、海軍の慰安所の他に陸軍の慰安所があるのであり、総数は20という方が正しいだろう。金原節三業務日誌の数字では、南海は10ヶ所となっている*8。
沖縄
■ 要塞建築勤務第六中隊陣中日誌(昭19・6・4、5、9)?
『資料集成』には、沖縄の慰安所についても資料がある。石兵団会報には司令部のある浦添町仲間に「後方施設」として昭和19年9月20日より開業したもの、見晴亭、観月亭、軍人会館の3つがあったことが記録されている(3巻、352頁)。12月5日からは、第3慰安所を開設したとある(同、374頁)。しかし、
各部隊ハ慰安所開設ニ当リ左記事項ヲ速ニ報告セラレ度
という通達(同、352-353頁)からは、各部隊毎に慰安所開設が行われていたことをうかがわせる。その後北部の島尻郡玉城へ司令部を移した石兵団は昭和20年1月8日現在大和会館、敷島会館という2つの「後方施設」を開設した(同、418-419頁)。富里にある慰安所を利用する部隊もあった(同、423-424頁)。
北部の本部町渡久地には昭和19年10月5日より慰安所が開業した(同、396頁)。同町謝花には11月26日慰安所の設備が完了した(同、406頁)。さらにその北の国頭郡今帰仁村にも昭和19年11月4日慰安所が開設された(同、399頁)。国頭支隊は昭和20年1月に真部山陣地内に兵寮をつくり慰安所をあらたに設置した(同、457頁)。
昭和19年12月北飛行場の整備にあたっている要塞建設勤務第6中隊の派遺班は56飛行大隊軍人倶楽部の改築と第427部隊軍人倶楽部の改築を同時に行っている(同、440頁)。
南部では、中頭郡北谷町の桑江に19年12月に慰安所があった(同、410頁)。20年1月2日慰安所が開設された(同、413頁)。20年1月首里にも慰安所があった(同、463頁)。
伊江島には昭和19年6月軍の手で慰安所が建設されている(同、307-325頁)。沖縄では部隊毎に、部隊の力で建物つくりから慰安所をつくったようである。慰安所の数について、相当に多かったと考えられる*9。金原節三業務日誌の数字は、昭和17年段階の数字であり、昭和19年以降設置された沖縄の慰安所は含められていない。
太平洋戦争の過程で南方につくられた慰安所には、朝鮮人が相当数送り込まれ、現地住民も相当に集められているが、日本人も後方の将校用にかなり送られていると言える。
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7 慰安所の管理規定
「慰安婦」問題 調査報告・1999
政府発表文書にみる「慰安所」と「慰安婦」一『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』を読む 和田春樹
ソースは
>歴史の教訓とする事業
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>「慰安婦問題」調査報告・1999
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政府調査《資料集成》の概要
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資料の復刻版『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』(全5巻、龍溪書舎出版)のPDFファイルは、
第1巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_1.pdf
第2巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_2.pdf
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第4巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_4.pdf
第5巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_5.pdf
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■ 7 慰安所の管理規定
『資料集成』には慰安所の管理規定が多く含まれており、慰安所の内部秩序について重要な資料を与えてくれる。次のような管理規定がある。
- 「常州駐屯間内務規定」(昭和13年3月)(2巻、251-258頁)常州駐屯間内務規定[独立攻城重砲兵第2大隊](昭13・3・16)?
- 「森川部隊特種慰安業務二関スル規定」(昭和14年11月14日)(同、327-336頁)森川部隊特種慰安業務ニ関スル規定[森川部隊長](昭14・11・14)?
- 「マンダレー駐屯地慰安所規定」(昭和18年5月26日)(4巻、281-293頁)駐屯地慰安所規定[「マンダレー」駐屯地司令部](昭18・5・26)?
- 「馬来軍政監部軍政規定集」(昭和18年11月11日)(3巻、21-28頁)軍政規定集第三号[馬来軍政監部](昭18・11・11)?
- 「慰安所ニ関スル規定」(ブツアン、昭和17年6月6日)(同、123-124頁)慰安所ニ関スル規定[独立守備歩兵第35大隊](昭17・6・6、11)?
- 「軍人倶楽部規定」(マスバテ島警備隊、昭和17年8月16日)(同、149-151頁)軍人倶樂部規定[マスバテ島守備隊長](昭17・8・16)?
- 「慰安所規定」(イロイロ派遣憲兵隊、昭和17年11月22日)(同、189-193頁)慰安所規定送付ノ件[軍政監部ビサヤ支都イロイロ出張所](昭17.11.22)?
- 「外出及軍人倶楽部ニ関スル規定」(遠山隊、昭和19年)(同、279-281頁)外出及軍人倶楽部ニ関スル規定〔直兵団遠山隊](昭19)?
- 「軍人倶楽部利用規定」(中山隊、昭和19年5月)(同、333-339頁)軍人倶楽部利用規定[中山警備隊(在広東)](昭19・5)?
- 「後方施設ニ関スル内規」(石第3596部隊、昭和20年1月8日)(同、418-422頁)独立歩兵第一五連隊本部陣中日誌(昭20・1・2、13)?
- 「海軍慰安所利用内規」(スチュアード砲台〔第12特別根拠地隊〕、昭和20年3月18日)(同、479-483頁)海軍慰安所利用内規〔第12特別根拠地隊司令部](昭20・3・18)?
米軍の調査資料の中に英訳されているものとして、以下のものがある。
- 「マニラ認可料理店、慰安所規則」(昭和18年2月)(5巻、143-146頁)調査報告書(Research Report) № 120(1)?
- 「マニラ陸軍航空隊慰安所利用規則」(昭和19年10月14日)(同、英文、146-147頁)調査報告書(Research Report) № 120(1)?
- 「(上海)南地区舎営内特殊慰安所利用規則」(同、英文、147-148頁)調査報告書(Research Report) № 120(1)?
- 「タクロバン慰安所規則」(同、英文、148-150頁)調査報告書(Research Report) № 120(1)?
- 「ブラウエン地区慰安所規則」(同、英文、150-151頁)調査報告書(Research Report) № 120(1)?
- 「ラバウル海軍慰安所規則」(同、英文、151頁)調査報告書(Research Report) № 120(1)?
管理経営について、程度はさまざまであったと言える。軍による建物の提供、もしくは建設は普遍的に見られた。軍による警備も当然の前提である。営業時間、休業、単価も軍が決定している、部隊による利用日の割り振りも軍がおこなっている。女性の性病検査も軍がおこなっている。ここまでは共通である。
(部隊毎に下士官が引率)
■ 常州駐屯間内務規定[独立攻城重砲兵第2大隊](昭13・3・16)?
これまで注目されてきた「常州駐屯間内務規定」にはこれらのことがみなもりこまれているが、ひとつ注目したいのは、部隊の割り当てをおこなった上で、
慰安所ニ至ルトキハ各隊毎ニ引率セシムヘシ
と指示していることである(2巻、258頁)。部隊毎に下士官が引率して慰安所に行くということは慰安所が戦争をよりよくさせるため兵士の精神的・肉体的再整備をはかる軍隊の装置であることを示している。
(委員の任命と利用権)
■ 森川部隊特種慰安業務ニ関スル規定[森川部隊長](昭14・11・14)?
よりはっきりした形のものは、軍が管理するための委員を任命することになる。そして利用券を発行して、軍が利用回数を把握できるようにするのである。
これまで公表されていなかった3つの利用規定はいずれもこの明確な形を見せている。まず武昌近くの葛店と華容鎮にあった4つの慰安所を管理する「森川部隊特種慰安所業務二関スル規定」である。この規定は
警備地域内ノ慰安業務ヲ実施スル為委員ヲ任命ス
と規定している。
- 「全般ノ統制」は連隊本部村上大尉、
- 第1、第2慰安所の「経営指導」は中島少尉、内困中尉、原口准尉、
- 第3、第4慰安所の「経営指導」は古賀、福田中尉、
- 「慰安掃ノ検査及衛生施設ノ指導」は軍医
という割り振りである。その上に
- 警備隊長が「慰安業務ヲ監督指導」する
ということになっている。
- 「警戒並ニ軍紀風紀ノ取締」は華容鎮と葛店の警備隊長の責任
とされる。経費は経営者が負担する。公休日は月に2日である。料金は軍が定めている。慰安所を利用しようとする者は連隊で発行する「慰安許下(ママ)証」を携行して、入所券を購入して、経営者に渡すことが必要である。経営者は毎日「売上表」を作成し、毎週月曜日に警備隊長をへて連隊本部に報告しなければならない(2巻、327-336頁)。ここでは利用許可証によって動態を把握し、経営者の報告からも把握する考えである。
■ 独立歩兵第一五連隊本部陣中日誌(昭20・1・2、13)?
《沖縄の石兵団第3596部隊「後方施設ニ関スル内規」
沖縄の石兵団第3596部隊の慰安所、「後方施設ニ関スル内規」もこれと同じである。ここには大和会館と敷島会館の2つの慰安所があった。その使用区分は隊ごとにわけられた。軍は委員長および3人の委員を任命して、管理に当たらせた。
であった。定休日は月2回とされた。「花代」も定められた。支払いは「切符制」でおこなわれた。切符は本部で発行されるもので、
慰安券下士官(または兵)石第3596部隊
と書かれていた。規定に
従業員一名ニ対シー日下士官二枚、兵三枚以内トス
とあった(3巻、418-422頁)。1日5人以内としようという考えである。
(直営例)
■ 第二軍状況概要[第2軍司令部(中支武漢地区)](昭13・12・10)?
もっとも徹底した軍管理は第12特別根拠地隊*1司令部の海軍慰安所利用内規にみられる。これによると、
とある。実際上の直営である。まず家屋は
業者ニ無償貸与スルモノトシ家具調度品等ハ必要最少限一時貸与ス
とある。業者は貸与されたものの保全の責任をおうことになる。海軍慰安所は利用者別に鶴ノ家、亀ノ家(以上准士官以上)、松ノ家(下士官兵用)、竹ノ家(施設部隊員用)、梅ノ家(施設部以外の軍属、出入り商杜員)と分けられる。料金は各範疇ごとに定められている。料金の支払いは「慰安所使用券」によっておこなわれなければならないので、あらかじめ軍より購入し、持参しなければならない。各隊では半月ごとに範疇ごとに表を作成し、料金をとりまとめて、主計長に提出する。業者に対しては主計長より毎月1回月間の稼ぎ高より「生活諸費其ノ他ヲ控除ノ上支給ス」とある。慰安所内では現金の支払いは禁止されている。定休日は月一回である(3巻、479-482頁、資料集に乱丁あり)。
この方式によって軍は将兵の慰安所への訪問の回数、慰安婦総員の「仕事」の回数を把握し、これを統制することができるのである。これらはもっとも整備された形をとっているもので、極端な例外というものではない。森川隊、石兵団の規定にもある。切符制度は広く行われていた(2巻、302頁)。
(休日)
慰安婦の生活という面からみると、マスバテ、イロイロ、遠山隊、中山隊の規定には休日の規定が一切ない。常州、スチュアード、マニラ認可料理店、上海南地区の規定には月1日とあり、森川隊、石兵団の規定には2日という規定がある。慰安所はほとんどが休みなしで行われているか、月に1日休むということのようである。外出については、常州、マスバテ、遠山隊、中山隊、石兵団、スチュアードの規定には一切規定がない。森川隊とマニラ認可料理店の規定には
連隊長ノ許可ヲ受クベシ
とか、
許可なくしては定められた区域を離れることはできない
とか、書かれている、イロイロの規定は
慰安婦外出ヲ厳重取締
慰安婦散歩ハ毎日午前八時ヨリ午前十時マデトシ…散歩区域ハ別表…ニ依ル
と定めている。外出はほとんど認められていないと考えられる。
(慰安婦の報酬)
■ 南部セレペス賣淫施設(慰安所)調書〔セレペス民政部第2復員班長](昭21・6・20)?
慰安婦の報酬について、一切定めていないのは常州、マスバテ、イロイロ、遠山隊、中山隊、石兵団、スチュアードの規定である。もっともくわしく定めているのが、馬来軍政部の規定で、債務残高が1500円以上なら雇い主6割以内、本人4割以上、1500円未満なら雇い主5割以内、本人5割以上、借金がなければ、雇い主4割以内、本人6割以上と定めている。マニラの規定では5割と定めている。石兵団では、「妓女」に7割、経営者に3割と定めている(3巻、367頁)。
この点ではミッチーナーの慰安所についての慰安婦の供述をまとめた報告では、生活条件がよく、賛沢な暮らしであり、兵士たちと一緒にスポーツ行事に参加したり、ピクニック、演芸会、夕食会に出席し、蓄音機をきき、都会では買い物にも出かけることが許されたと述べているが(5巻、英文、204頁)、肝心の休日については説明がなく、休みなしであった可能性がある。外出についても明確な説明がない。歩合については、5割から6割とあるが、経営者の供述では5割となっている*2。総じてこの慰安婦たちは経営者のために自分たちの生活が気楽なものであったと強調しているように見える。
南セレベスについての軍法会議検事からの質問に対する回答では、まず「淫売婦ノ生活方法」という項目については、すべてのケースについて、軍司令部、部隊、民政部
ニ於テ設備セル良好ナル宿舎ニ居住シ所定時間ノミ接客シ其ノ他ノ行動ハ自由トス
と繰り返している。さらに「報酬」については、陸軍中佐が責任者になっている慰安所については、
収入ノ90%ハ淫売婦ノ取得トス
とされ、のこりはみな
収入ノ50%ハ淫売婦ノ取得トス
とくり返している(4巻、357-360頁)。これは軍法会議の追及を逃れるために、弁解しているものと考えられる。
5割の報酬が普遍的であったかどうか、検討を要する。かりにそうなっていたとしても、どれほどの人が実際に報酬を手にしていたかは、これまた別個に検討を要する点である。
(最終局面では)
さて南方の慰安所は、その最終局面では、ビルマから沖縄まで日本軍の玉砕、敗退が起こり、慰安所と慰安婦はその戦闘にまきこまれることになった。そうなった段階では、慰安所のあり方は一変した。もはや軍による慰安所の管理規定は問題にならず、慰安所も軍の一部にくりこまれることになるのである。慰安婦は全的に軍に隷属することになる。
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8 慰安婦の帰還
「慰安婦」問題 調査報告・1999
政府発表文書にみる「慰安所」と「慰安婦」一『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』を読む 和田春樹
ソースは
>歴史の教訓とする事業
http://www.awf.or.jp/program/index.html
>「慰安婦問題」調査報告・1999
http://www.awf.or.jp/program/pdf/p007_031.pdf
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政府調査《資料集成》の概要
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/29
資料の復刻版『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』(全5巻、龍溪書舎出版)のPDFファイルは、
第1巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_1.pdf
第2巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_2.pdf
第3巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_3.pdf
第4巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_4.pdf
第5巻:http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_5.pdf
※1)PDFのページ番号は本の頁番号とずれています。
※2)英文資料の頁番号は逆順となりますのでご注意
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■ 8 慰安婦の帰還*1
慰安婦の帰還も時期と場所によって大きく異なっていると考えられる。南方で日本軍が玉砕した場合、慰安婦も多くが死亡した。玉砕に当たって、慰安婦を殺した場合も知られている。北ビルマの状況については、本論集に収められた浅野豊美氏の論文が詳しく明らかにしている。ここでは、在米韓国人学者方善柱氏の論文に発表された米軍の捕虜尋問記録*2からフィリピンでのケースに触れておく。
ルソン島ディンガラン湾で保護された5人の朝鮮人慰安婦の場合である。この5人は2組の姉妹を含んでいる。浅野氏が調査したところによると、園田姉妹は姉が28歳、妹が19歳であり、金本姉妹は姉が28歳、妹が22歳であった。もう1人の松本某女は24歳であった*3。5人は貧ゆえに「芸者ハウス」に売られていったが、そこで台湾の台中市に連れて行かれ、陸軍の慰安所にいた。一度朝鮮に戻り、1944年4月29日に全体62名の集団でフィリピンに連れて行かれた。到着すると、いくつかのグループに分かれ、各地のキャンプに分散した。5人は他の5人と共に、クラーク飛行場付近のヒグチ部隊に送られ、タニグチなる人物が経営する慰安所で働いた。それから同飛行場の地区司令部に配属になり、44年10月にはサン・フェルナンドの中村部隊に配属になった。45年1月10日、ここを退却する過程で鈴木部隊に合流し、イボめざして行軍した。途中で慰安婦1人が死亡し、病気の2名はイボに放置された。1月下旬にイボを捨て、4月にイロイロに到着した。部隊は山中を逃げて、ウミライに向かうことになったが、まず2人が逃げた後、のこる5人も部隊を離れ、海岸線を北上した。5月18日米軍の上陸用舟艇が接近したのをみて、手を振り、救助されたのである。
10人の集団の内、5人が救出されたことになり、他の5人は死亡ないし行方不明である。なおNHKの取材チームは5人中3人の帰国を確認し、園田妹が米国に居住していることを明らかにした*4。
■ 「俘虜名票」に関する調査結果概要[厚生省社会・援護局](昭22・1・9)?
慰安婦の帰還については米軍がつくった捕虜名簿が手がかりとなる。『資料集成』には厚生省が所蔵する捕虜名票の関連内容が公表されている(4巻、363-366頁)。これは同省社会・援護局が原名票を精査・点検して平成5年(1994年)10月8日に作成した報告である。これによると、原資料は
連合軍作成の英文資料で、個人ごとに出身地、職業等を記載した個人別カード
である。この名票の総数は16万4395人であり、うち女性は829人であり、出身地別に日本786人、台湾24人、朝鮮半島19人である。Comfort Girl(慰安婦)と書かれているのは、日本19人、朝鮮11人(Comfort Unit 1 をふくむ)である。(4巻、363頁)。日本出身者の中で看護婦と書かれている者がもっとも多く、435人ある。タイピスト、秘書、事務員、遠記者など合わせて142人で、他はウェイトレス20人、慰安婦19人、芸者9人、主婦9人、農婦6人などが挙がっている。台湾出身者は看護婦10、農婦5、ウェイトレス3、メード、主婦、Prostitute、店員、タイピスト、無職が各1である。朝鮮半島出身者は慰安婦の他、農婦2、主婦、看護婦、ウェイトレスが各1、無職3である。職業は本人が申告したものであり、ウェイトレス、主婦、農婦、メードはみな慰安婦である可能性が高い。日本人は看護婦と事務職を除いた191人は慰安婦であったとみることができる。台湾と朝鮮は全員慰安婦であったとみても、24人と19人だから、ほぼ10分の1である。
《方善柱氏の論文》
しかし、この捕虜名粟が全体のいかなる部分を占めるものなのか、資料の性格が明らかにされなければならない。この資料について最初に注目したのは方善柱氏である。氏の論文によると、米国は1954年12月17日にジュネーヴ条約第77条により捕虜名簿と個人別調査書類を日本側に送り、捕虜名簿一部を国家記録保管センターに残した、それは List of Japanese Prisoner of War; Records Transferred to the Japanese Govermnent と題されるものである。名簿は6巻に製本され、17万9498人の姓名、認識番号のみが記載されている。身上調書、すなわち名票は340箱に収められて、日本側に引き渡されたと記録されているとのことである。方氏は日本側が保管する資料を見れば、朝鮮人、その中の慰安婦であった人について知りうるのではないかと述べておられたが*5、厚生省が調査した結果は上記の通りであった。
方氏はすでにこの資料の性格を考えるために、他ののこる名簿と比較しておられる。まず沖縄から韓国へ送還された朝鮮半島出身者の名簿がある。Headquarters Okinawa Base Command, Okinawa Prisoner of War Camp No.1 で編纂されたもので、朝鮮人収容所第1から第8までに収容されている非戦闘員 1587人が収録されている。うち戦争犯罪嫌疑者46人については別に名簿がつくられている。この嫌疑者を含め、ある程度の人々は上記6巻の捕虜名簿に含まれているようだと方氏は書いている*6。方氏はこの沖縄の名簿には女性が含まれているのかどうか、明らかにしていないが、実はこの名簿は本岡昭次議員が1991年3月31日国会でその内容について質問した資料である。本岡氏は女性と確認できるのが51人、また女性とみられるのが47人含まれていると明らかにした*7。方氏はそれと別に沖縄から韓国に送還された朝鮮人慰安婦147人の名簿も発見され、こちらは全員6巻の名簿には含まれていないと指摘しておられる*8。こちらの名簿も国会図書館所蔵のGHQ文書の中から本岡議員が発見した*9。
《フィリピンから送還された軍人と民間人の名簿》
つぎに方氏はフィリピンから送還された軍人と民間人の名簿を検討して、この名簿の人々は6巻の名簿に入っている、女性はかなり多いとのみ書かれている。そして韓国行きの送還船Etrufd号の乗船者名簿245人中に女性2人の名があるが、その人々は6巻の名簿に載っているとされている*10。
(低い保護率、帰還率)
以上のことからすると、厚生省発表資料の捕虜名票には沖縄とフィリピンでの捕虜が含まれていることが明らかである。しかし、沖縄とフィリピンの捕虜が悉皆的に収録されているわけではない。沖縄の慰安婦147人は含まれていない。フィリビンで保護された慰安婦と思われる朝鮮人女性は浅野氏が米軍尋問記録から21人をすでに数えているので*11、フィリピンの捕虜も完全にカヴァーしていないことがわかる。したがって、この資料から断定的なことは何も言えないが、16万4395人の捕虜集団の中に191人の日本人慰安婦、朝鮮人慰安婦19人、台湾人慰安婦24人がいるとしたら、これは朝鮮人、台湾人慰安婦が少ないことを示すのではなく、彼女らの低い保護率、帰還率を示しているということであろう。
《帰還率の推定》
沖縄には朝鮮人慰安所が40ヶ所、朝鮮人と沖縄人混合の慰安所が5ヶ所あったと言われる*12。1ヶ所の慰安婦数を10人、混合の場合5人とすれば、朝鮮人慰安婦の総数で425人と推定される。沖縄から帰還した朝鮮人慰安婦のリストには147人が挙げられている。沖縄米軍政府活動報告(1945年11月23日)によると、
とのことである。425人中147人なら、ここでは帰還率は34.6パーセントだということになる。
この問題については、さらに研究が深められなければならない*14。
*2:原注(32)方善柱「米国資料に現れた韓人〈従軍慰安婦〉の考察」(ハングル)、『国史舘論叢』37号、1992年10月、224頁。
*3:原注(33)浅野豊美「米国ナショナルアーカイヴ慰安婦関係資料調査報告書」平成10年1月23日、12頁。
*4:原注(34)NHK・ETV特集「アジアの従軍慰安婦・51年目の声」1996年12月28日放映。
*6:原注(36)同上、222-223頁。
*9:原注(39)『朝日新聞』1991年8月10日。文書はSCAP文書のBox1967にある。国立国会図書館マイクロフィッシュ版では、LS40637~40638である。
*11:原注(41)浅野豊美「米国ナショナルアーカイヴ慰安婦関係資料調査報告書」12頁。
*12:原注(42)吉見・林編、前掲書、129頁。
*13:原注(43)この資料は毎日放送が入手した。『毎日新聞』1991年11月29日。引用は吉見編『従軍慰安婦資料集』582頁より。
*14:原注(44)秦郁彦氏は全体としてみれば「九五%以上が生還した」と主張している(秦郁彦「『慰安婦伝説』を見直す」、『「慰安婦」問題とアジア女性基金』東信堂、1998年、198頁)。本稿でみた極限的な事例だけでなく、広く検討していくべきであろう。
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注
「慰安婦」問題 調査報告・1999
政府発表文書にみる「慰安所」と「慰安婦」一『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』を読む 和田春樹
ソースは
>歴史の教訓とする事業
http://www.awf.or.jp/program/index.html
>「慰安婦問題」調査報告・1999
http://www.awf.or.jp/program/pdf/p007_031.pdf
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■ 注
- (1)吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書、1995年、19頁。
- (2)同上、16-17頁。吉見義明・林博史編『共同研究日本軍慰安婦』大月書店、1995年、16頁。典拠は、稲葉正夫編『岡村寧次大将資料』上巻(戦場回想篇)、原書房、I970年、302貫。『岡部直三郎大将の日記』芙蓉書房、1982年、23頁。
- (3)陸軍省軍務局長「大東亜戦争間軍法会議処刑掠奪強姦等犯罪事例ニ関スル件」、別冊「日本軍ノ軍紀粛正ニ就テ」、昭和20年10月3日、永井均篇『戦争犯罪調査資料』東出版株式会社、1995年、210-212頁。
- (4)政府発表では南支23軍となっているが、吉見氏の考証で南支21軍とされている。吉見義明編『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年、214頁。
- (5)吉見『従軍慰安婦』165-166頁。
- (6)同上、65-66頁。吉見・林編、前掲書、22頁。
- (7)この資料については、本論集の浅野豊美論文をみてほしい。
- (8)文玉珠『ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私』梨の木舎、1996年、45-57頁。なお朝鮮人慰安婦の送り出しについての業者の活動については、尹明淑「日中戦争期における朝鮮人軍隊慰安婦の形成」、『朝鮮史研究会論文集』32号、1994年10月、104-109頁をみてほしい。
- (9)吉見編『従軍慰安婦資料集』154-157頁。
- (10)吉見、前掲書、82頁。吉見・林編、前掲書、5頁。吉見氏の論じ方は最近も変わらない。同「『従軍慰安婦』問題一研究の到達点と課題」、『歴史評論』1998年4月号、6頁。
- (11)同じような試みをした先行研究は、カン・ジョンスク「日本軍慰安所の地域的分布とその特徴一日本軍官文書の分析を中心に」(ハングル)、韓国挺身隊問題対策協議会真相調査研究委員会編『日本軍「慰安婦」問題の真相』歴史批評社、1997年、141-223頁がある。
- (12)楊昭全等編『関内地区朝鮮人反日独立運動資料▼編』(▼=匚の中に惟)遼寧民族出版杜、1987年、15,20頁。
- (13)同上、71頁。
- (14)吉見編『従軍慰安婦資料集』191頁。
- (15)設置に関係した者の回想にもとづく秦郁彦の研究、『昭和史の謎を追う』下、文芸春秋、1993年、327頁。
- (16)楊昭全等編、前掲書、65-66頁。
- (17)楊昭全等編、前掲書、67頁には、朝鮮人慰安婦は89人とある。
- (18)カン・ジョンスク、前掲論文、169頁にはミスがある。
- (19)楊昭全等編、前掲書、69頁には、朝鮮人慰安婦は165人とある。
- (20)同上、50頁。
- (21)同上、70頁。
- (22)本論集の波多野澄雄論文による。
- (23)同上。
- (24)同上。
- (25)本論集の浅野豊美論文による。
- (26)吉見・林編、前掲書、120頁。
- (27)平成4年7月6日の政府調査結果の発表のさい、バタビア臨時軍法会議の審理の内容を述べた法務省提出報告が含められた。『資料集成』には、この報告は含まれていない。
- (28)本論集の波多野澄雄論文による。
- (29)同上。
- (30)沖縄の人々の研究によると、130ヶ所という集計が出ている。吉見・林編、前掲書、129頁。
- (31)吉見編『従軍慰安婦資料集』460頁。
- (32)方善柱「米国資料に現れた韓人〈従軍慰安婦〉の考察」(ハングル)、『国史舘論叢』37号、1992年10月、224頁。
- (33)浅野豊美「米国ナショナルアーカイヴ慰安婦関係資料調査報告書」平成10年1月23日、12頁。
- (34)NHK・ETV特集「アジアの従軍慰安婦・51年目の声」1996年12月28日放映。
- (35)方善柱、前掲論文、221-222頁。
- (36)同上、222-223頁。
- (37)『朝日新聞』1991年4月1日。
- (38)方善柱、前掲論文、223頁。
- (39)『朝日新聞』1991年8月10日。文書はSCAP文書のBox1967にある。国立国会図書館マイクロフィッシュ版では、LS40637~40638である。
- (40)方善柱、前掲論文、223-224頁。
- (41)浅野豊美「米国ナショナルアーカイヴ慰安婦関係資料調査報告書」12頁。
- (42)吉見・林編、前掲書、129頁。
- (43)この資料は毎日放送が入手した。『毎日新聞』1991年11月29日。引用は吉見編『従軍慰安婦資料集』582頁より。
- (44)秦郁彦氏は全体としてみれば「九五%以上が生還した」と主張している(秦郁彦「『慰安婦伝説』を見直す」、『「慰安婦」問題とアジア女性基金』東信堂、1998年、198頁)。本稿でみた極限的な事例だけでなく、広く検討していくべきであろう。
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Re:慰安婦問題政府調査資料について(4)
7月31日(日本時間)米下院本会議で、慰安婦決議案が可決されました。それに対してこんなことを相変わらずいいつづけている人たちがいます。
慰安婦が第二次大戦中に辛酸をなめたことは同情に値する事実だが、彼女らは主として民間業者によって集められ、日本政府が強制的に集めて売春を行わせたのではない。それは、日本政府が2年がかりで集めた200点を超える公的文書などが証明している。
(産経新聞【主張】慰安婦決議 官民で事実誤認を正そう 08/01 05:16
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/opinion/72507/)
「日本政府が2年がかりで集めた200点を超える公的文書」
これが証明するものは、
- 長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。
- 慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、
- 慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。
- 慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、
- その場合も、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、
- また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
- 戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていた
- その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
ということです。(「河野談話」http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html 「いわゆる従軍慰安婦問題について」http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/pdfs/im_050804.pdf)
このとき、「慰安婦の募集に官憲等が直接これに加担したことがあったかどうか」は、元従軍慰安婦の聞き取りによるものでした。
しかし「慰安婦の募集に官憲等が直接これに加担したこと」を証明する公文書は、
など多くが見つかっています。
したがって、
彼女らは主として民間業者によって集められ、日本政府が強制的に集めて売春を行わせたのではない。それは、日本政府が2年がかりで集めた200点を超える公的文書などが証明している。
は全くの虚偽であり、「200点を超える公的文書」が『軍関与』の証拠となっている事実を、逆転させようとする策謀と言わざるを得ません。
~~~~~~~~~~~
このような初歩的な歪曲が可能なのは、河野談話に至る政府調査と、それを引き継いだアジア女性基金の調査研究の成果が、殆ど世の中に浸透してないからです。
私は、調査研究の成果を広めることを妨げた原因のひとつに、アジア女性基金が「鍵をかけたPDF」という公表形式をとったことがあると思います。
20:
ni0615
19
書き起こし。皆さんのご協力を御願いします!
そこで私は、
すでに公開されていながら闇のベールに包まれてしまった「200余点の公文書」に日の目を見させるために、まず、
和田春樹さんの論文
『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』を読む
を書き起こすことにしました。
だだ書き起こすだけでなく、
- 「200余点の公文書」に着眼するために、『文書名』にハイパーリンクする再構成を試みました。
- 和田論文では「文書名」が不明確なものは、『資料集成』の頁から「文書名」を明らかにしようとしています。
- そして「文書名」を手がかりに、既出のWebサイトとのリンク付けも行いたいと思っています。
- さらに重要なのは「アジア歴史資料センター」リファレンス№との関連付けです。
上記3と4は、皆さんの協力なくしては作業が進まないと思いますので、情報を教えてくださるよう御願いいたします。
さらに「政府調査資料」の文献一覧は、すでに
『「慰安婦」関係文献目録』1997年9月ぎょうせい
として出版されているそうです。
そこで御願いいたします。
これをお持ちの方は、この目録にある文献名と解題の要旨を電子テキスト化することに、ぜひ協力していただきたいのです。
21:
ni0615
6
【文献名一覧】和田論文が言及した資料
1 軍慰安所の設置
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/8#p1
- 恤兵金ノ処分二関スル件〔閣譲決定](昭7・7・19)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/8#p2
- 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・4・11~20)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/8#p3
- 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・4・21~30)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/8#p4
- 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・5・1~10)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/8#p5
- 北支那並満州国視察報告[工兵第4大隊中隊長](昭9・3)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/8#p6
- 昭和十一年中ニ於ケル在留邦人ノ特種婦女ノ状況及其ノ取締[在上海総領事館讐祭署沿革誌二依ル】(昭10)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/8#p7
- 昭和十三年中ニ於ケル在留邦人ノ特種婦女ノ状況及其ノ取締並ニ租界当局ノ私娼取締状況 [在上海総領事館讐祭署沿革誌二依ル】(昭13)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/8#p8
- 支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策[陸軍省副官](昭15・9・19)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/8#p9
■吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書16-17頁。吉見義明・林博史編『共同研究日本軍慰安婦』大月書店、1995年、16頁。典拠は、稲葉正夫編『岡村寧次大将資料』上巻(戦場回想篇)、原書房、I970年、302頁。『岡部直三郎大将の日記』芙蓉書房、1982年、23頁。
- 昭和一七年四月陸軍々人軍属犯罪表[中支那派遣憲兵隊司令部](昭17)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/8#p10
- 昭和一七年四月陸軍々人軍属非行表[中支那派遣憲兵隊司令部](昭17)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/8#p11
- 軍人ノ変死ニ関スル件報告[第3飛行師団司令部](昭和17)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/8#p12
- 戦場生活ニ於ケル特異現象ト其対策[早尾乕雄](昭14・6)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/8#p13
■陸軍省軍務局長「大東亜戦争間軍法会議処刑掠奪強姦等犯罪事例ニ関スル件」、別冊「日本軍ノ軍紀粛正ニ就テ」、昭和20年10月3日、永井均篇『戦争犯罪調査資料』東出版株式会社、1995年、210-212頁。
■陸軍刑法の改正(昭17年)。陸軍省軍務局長「大東亜戦争間軍法会議処刑掠奪強姦等犯罪事例ニ関スル件」、別冊「日本軍ノ軍紀粛正ニ就テ」、昭和20年10月3日、永井均篇『戦争犯罪調査資料』東出版株式会社、1995年、210-212頁。
- 軍人軍隊ノ対住民行為ニ関スル注意ノ件[北支那方面軍参謀長](昭13.6.27)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/8#p14
- 状況報告[独立攻城重砲兵第2大隊長](昭13・1・20)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/8#p15
- 慰安所ノ状況【波集団司令部](昭14.4)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/8#p16
2「慰安婦」の募集
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/9#p1
- 支那渡航者ニ対スル身分証明番発給ニ関スル件[福岡県知事](昭12・12・15)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/9#p2
- 時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件[和歌山県知事](昭和13・2・7)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/9#p3
- 醜業帰渡支ニ関スル経緯[内務省](期日不明)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/9#p4
- 時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件[和歌山県知事](昭和13・2・7)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/9#p5
- 上海派遺軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌帰募集ニ関スル[群馬県知事](昭和13・1・19)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/9#p6
- 北支派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件[山形県知事](昭和13・1・25)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/9#p7
- 派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件[茨城県知事](昭和13・2・14)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/9#p8
- 支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件〔内務省警保局長](昭和13・2・23)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/9#p9
- 軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件[陸軍省副官](昭13・3・4)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/9#p10
- 支那渡航婦女ニ関スル件伺[内務省瞥保局警務課長・外事課長](昭和13・11・4)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/9#p11
- 南支方面渡航婦女ノ取扱ニ関スル件[内務省警保局長](昭和13・11・8)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/9#p12
- 南支方面渡航婦女ノ取扱ニ関スル件[内務省警保局長](昭和13・11・8)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/9#p13
3 渡航手続き関係資料が示すもの
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/10#p1
- 不良分子ノ渡支取締方ニ関スル件[外務次官](昭和12・8・31)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/10#p2
- 渡支邦人暫定処理ニ関スル件[内務省讐保局長](昭16・8・16)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/10#p3
■昭和15年5月7日支那渡航当分中止の閣議決定。吉見『従軍慰安婦』、65-66頁。吉見・林編、前掲書、22頁。
- 渡支邦人暫定処理取扱方針中領事館瞥察署ノ証明書発給範囲ニ関スル件[警務部第三課](昭15)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/10#p4
- 「渡支邦人暫定処理ノ件」打合事項[不明](昭15)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/10#p5
- 渡支邦人暫定処理ニ関スル件[内務省讐保局長](昭16・8・16)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/10#p6
- 南洋方面占領地ニ於ケル慰安所開設ニ関スル件[台湾総督麻外事部長](昭17.1.10)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/10#p7
- 南方派遺渡航者ニ関スル件【台湾軍司令官〕(昭17・3・12)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/10#p8
- 南方派遺渡航者ニ関スル件【陸軍省副官〕(昭17・3・16)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/10#p9
- 南方派遺渡航者ニ関スル件【台湾軍参謀長〕(昭17・3・16)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/10#p10
- 心理戦作戦班報告書(Japanese Prisoner of War Informatron Report) 49号?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/10#p11
- 調査報告書(Research Report) № 120(1)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/10#p12
■文玉珠『ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私』梨の木舎、1996年、45-57頁。
■尹明淑「日中戦争期における朝鮮人軍隊慰安婦の形成」、『朝鮮史研究会論文集』32号、1994年10
4 渡航証明書発給資料の検討
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/11#p1
- 渡支取締方ノ件[台北州知事](昭14・1・13)~(昭16・9・27)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/11#p2
- 渡支取締ニ関スル件[新竹州知事](昭13・12・14)~(昭15・2・16)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/11#p3
- 渡支取締方ノ件[台中州知事](昭14・1・17)~(昭16・8・18)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/11#p4
- 渡支取締ニ関スル件[高雄州知事](昭14・2・14)~ (不明)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/11#p5
- 渡支取締ニ関スル件〔台南州知事〕(昭14・1・20)~〕(昭15・2・26) ?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/11#p6
■朝鮮総督府の警務局長、渡支身分証明書発給状況調べ、吉見編『従軍慰安婦資料集』154-157頁。
- 幹部ニ対スル衛生教育順序[北支那派遺軍甲集団軍医部】(昭15・11)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/11#p7
- 支那事変ニ於ケル軍紀風紀ノ見地ヨリ観察セル性病ニ就テ[大本営陸軍部研究班](昭15・10)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/11#p8
4 渡航証明書発給資料の検討
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/11#p1
- 渡支取締方ノ件[台北州知事](昭14・1・13)~(昭16・9・27)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/11#p2
- 渡支取締ニ関スル件[新竹州知事](昭13・12・14)~(昭15・2・16)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/11#p3
- 渡支取締方ノ件[台中州知事](昭14・1・17)~(昭16・8・18)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/11#p4
- 渡支取締ニ関スル件[高雄州知事](昭14・2・14)~ (不明)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/11#p5
- 渡支取締ニ関スル件〔台南州知事〕(昭14・1・20)~〕(昭15・2・26) ?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/11#p6
■朝鮮総督府の警務局長、渡支身分証明書発給状況調べ、吉見編『従軍慰安婦資料集』154-157頁。
- 幹部ニ対スル衛生教育順序[北支那派遺軍甲集団軍医部】(昭15・11)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/11#p7
- 支那事変ニ於ケル軍紀風紀ノ見地ヨリ観察セル性病ニ就テ[大本営陸軍部研究班](昭15・10)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/11#p8
5 居留民職業別人口統計の検討
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p1
- 昭和一七年九月副官会同席上意見、質疑及回答[支那派遣軍総司令部](昭17・10・3)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p2
- 昭和一七年九月副官会同席上意見、質疑及回答(追加)[支那派遣軍総司令部](昭17・9)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p3
- 昭和十三年在南京総領事館蕪湖分館警察事務状況[同讐察署長報告摘録](昭13)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p4
■カン・ジョンスク「日本軍慰安所の地域的分布とその特徴一日本軍官文書の分析を中心に」(ハングル)、韓国挺身隊問題対策協議会真相調査研究委員会編『日本軍「慰安婦」問題の真相』歴史批評社、1997年、141-223頁
■朝鮮総督府警務局の『朝鮮人概況』。楊昭全等編『関内地区朝鮮人反日独立運動資料▼編』(▼=匚の中に惟)遼寧民族出版杜、1987年、15,20頁
- 昭和十三年在杭州領事館警察事務状況[同讐察署長報告摘録](昭13)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p5
- 杭州在留邦人営業種別並二投資額一覧表送付ノ件[在杭州領事代理](昭14.2.24)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p6
■総領事館警察鎮江分署の資料。吉見編『従軍慰安婦資料集』191頁。
■揚州の慰安所。設置に関係した者の回想にもとづく秦郁彦の研究、『昭和史の謎を追う』下、文芸春秋、1993年、327頁。
- 衛生業務要報[第15師団軍医部](昭18・1、18・2)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p7
- 在留邦人人口統許職業別報告ノ件【在蕪湖副領事](昭14.4.4) ~(昭14.9.3)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p8
- 常州駐屯間内務規定[独立攻城重砲兵第2大隊](昭13・3・16)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p9
- 独立攻城重砲兵第二大隊第二中隊陣中日誌(昭13・3・3、11、14,16)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p10
- 九江在留邦人職業別人口統計表提出ノ件[在南京総領事](昭13.11.8)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p11
- 南昌在留邦人職業別人口統計報告ノ件【在九江領事代理](昭14.8.9)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p12
- 南昌居留民職業別人口統計表【在九江日本領事館警察署南昌分署](昭14.9.1)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p13
- 本邦人職業別表送付ノ件〔在漢口総領事](昭13・12・3)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p14
■昭和14年安慶朝鮮人慰安所。楊昭全等編、前掲書、65-66頁。
■南昌慰安所資料。カン・ジョンスク、前掲論文、169頁にはミスがある
■南昌慰安所資料。楊昭全等編、前掲書、69頁
- 〔漢ロヘノ渡航者取締ニ関スル件〕[在漢口総領事](昭14・2・3)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p15
- 漢口ヘノ渡航者取締ニ関スル件[外務省亜米利加局長](昭14・2・7)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p16
- 漢口陸軍天野部隊慰安所婦女渡支ノ件[外務大臣](昭14・12・22)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p17
- 漢口陸軍天野部隊慰安所婦女渡支ノ件-回答[漢口総領事](昭14・12・27)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p18
- 森川部隊特種慰安業務ニ関スル規定[森川部隊長](昭14・11・14)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p19
- 独立山砲兵第三連隊陣中日誌(昭14・6・7、30)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p20
- 軍紀違犯者ノ件特別報告[第13師団長〕(昭17・1)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p21
- 特別報告中軍人変死ノ件報告[第13師団長〕(昭17・3)?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p22
■武昌慰安所。楊昭全等編、前掲書50頁
■岳陽(岳州)慰安所。楊昭全等編、前掲書70頁
- 金原節三業務日誌?
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/27/13#p23
(ただいま作成中)
23:
ni0615
4
【ご意見】みなさんからの
皆様からのご意見は、
- それぞれの章の後にフォローしてくださっても結構ですし、
- このあとに書き込んでくださってもかまいません。
よろしく御願いします。
26:
ni0615
9
【関連】永井和氏による警察史料の解題
27:
zames_maki
24
【業務連絡】20へのレス
30: このエントリーは削除されました
このエントリーは削除されました
31:
ni0615
1
慰安婦問題政府調査資料・・・古森歪曲について
永井さんの論考をお読みください。
古森義久氏の資料の読み方
慰安所・慰安婦関係の公文書の解釈と評価を、ただそれが「強制連行・強制徴集を示す証拠であるのか、ないのか」といった単一の判断基準のみでおこなおうとする傾向を、典型的なかたちで示しているのは、いうまでもなく古森義久氏の慰安婦問題に関する一連の発言ないし報道記事です。
古森氏の場合は、私が先のエントリで指摘した弊害、すなわち「先入主となった固定的な判断基準にとらわれて史料を解釈すると、ほんとうにその史料が語っていることを見逃しかねない危険がある」の典型的な例といえるかもしれません。
リードのみ紹介しました。つづきは、
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/nagaikazu/20070726
でお読みください。
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