2:
noharra
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「日台戦争」
檜山幸夫氏は日清戦争および植民地期台湾を専門としているが、その著書『日清戦争 秘蔵写真が明かす真実』(講談社、1997)では、第六章「台湾統治と台湾戦線」の第三節を「日台戦争」と題している。
清軍兵士と異なり、彼ら(引用者注—台湾の抗日軍)が頑強に抵抗した背景には、台湾に福建省や広東省から移住し、そこに住んでいた原住民を討伐し、苦労して荒れ地を開墾して獲得した土地を守るという意識があったからにほかならない。その意味では、台湾での戦闘は、正しく日本と台湾との戦争(日台戦争)であり、最初の植民地戦争であったということになろう。
全文およびコメント欄を参照のこと。
5/16付け記事も要参照。
今からちょうど一〇〇年前、一八九五(明治二八)年四月十七日の下関講和条約調印で、日清戦争は公式に終結した。そして現代の我々日本人は、それをもって、以後日露戦争まで、日本軍の対外的武力行使が中断されたものと思いがちである。しかし、条約の結果日本に割譲されることになった台湾では、割譲に反対して台湾民主国建国が宣言され、日本軍の占領に対し激しい武力的抵抗が展開された。…狭義の日清戦争に引き続いて、講和条約を起点として「別の新戦争」が始まっていたのである。
大江志乃夫氏は、20年に及んだ戦争を3期に区分している(同『日露戦争と日本軍隊』立風書房、1987、45頁)。
【第1期】 1895.5〜96.5
台湾民主国を崩壊させ、一応台湾全土を軍事的に制圧するまでの征服戦争の時期
【第2期】 〜1902
日本軍の軍事的制圧下で武装蜂起による中国系平地住民のゲリラ的抵抗がつづけられた
【第3期】 〜1915
3:
noharra
もんてびでお丸の悲劇
もんてびでお丸:豪州人捕虜ら乗せ比沖沈没 国境超え、67年後の慰霊祭--来月1日
◇「日本人も参列を」
第二次世界大戦中の1942年、フィリピン沖で米軍の攻撃を受けて沈没した大阪商船(現商船三井)の「もんてびでお丸」に乗っていた豪州人捕虜の遺族らが、7月1日、現場海域近くで初めての慰霊祭を開く。1000人以上が犠牲になった惨劇から67年。豪州の「もんてびでお丸追悼実行委員会」は「国境を超えて犠牲者の交流を深めたい」として、日本の遺族にも参列を呼びかけている。【工藤哲】
豪州在住の遺族や歴史家ら8人が実行委を結成して企画した。会場はフィリピン・ルソン島のスービックで、海岸近くの岩に沈没の事実を伝える額などを置き、冥福を祈る。
実行委の中心メンバーで元学校長のクリス・ディエカさん(61)の父親は、パプアニューギニアで戦時中に日本軍の捕虜になった。このため、旧日本軍の海軍基地があったラバウル(ニューブリテン島)の様子や、生まれる前に起きたもんてびでお丸の悲劇に長年関心を抱いてきた。豪州人捕虜の遺族3人や歴史研究家と知り合い、数年前から沈没の経緯などを調べる中で、捕虜たちを供養する慰霊祭が一度も開かれていないことを知った。
ディエカさんは「沈没で日本人以外にも1000人以上の捕虜や船員が亡くなった。国境を超えて悲劇を心に刻み、今後遺族同士の友好を深めたい」として慰霊祭を企画した。
実行委との窓口となっている民間学術団体「太平洋学会」(東京都港区)の中島洋専務理事(78)は「悲劇を知る人は少ないが、まだ日本にも遺族はいる。日豪の関係は年々深まっており、遺族同士の心の交流が両国の関係を深めるきっかけになれば」と日本側遺族の参列に期待している。問い合わせは同学会(03・5442・2706、メールpacsoc2@c...)。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090608dde041040012000c.html
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■ことば
◇もんてびでお丸
1926年就航。当初は日本と南米の東海岸を定期航路客船として結んでいた。船名はウルグアイの首都名に由来。41年9月に旧日本海軍の運送船となり、兵器や弾薬を輸送した。42年6月22日に豪州兵捕虜1157人や日本人などの警戒隊員27人を乗せてラバウルから中国・海南島に向け出港、7月1日にフィリピン沖で米潜水艦の攻撃を受けて沈没した。日本人乗組員はゲリラなどに殺害され、生き残ったのは17人だけとされる。
毎日新聞 2009年6月8日 東京夕刊
4:
noharra
歴史修正主義反対派は五四運動の夢を見るか?
■ 歴史修正主義反対派は五四運動の夢を見るか?
というタイトルを考えた。
歴史修正主義反対派とは、http://norevisionism.ring.hatena.ne.jp/の参加者各位のこと。
「五四運動(ごしうんどう)は1919年のヴェルサイユ条約の結果に不満を抱き発生した中華民国時の北京から全国に広がった反日、反帝国主義を掲げる大衆運動。wikipedia」直前に起こった「三・一独立運動(さんいちどくりつうんどう)は、日本統治時代の朝鮮で起こった独立運動。wikipedia」とともに、現在中国・朝鮮(韓国を含む)の原点といっても過言ではない。
でわたしの表現はいつものように間違っていて、ここでいいたいのは実は、五四、ではなく六四なのでした。
いわゆる天安門事件ですね。
このたび20周年ということで、参加者および当局はピリピリしていたようですが、はてサ界隈では言及がほとんどないですね。
南京事件を深く研究されるのはすばらしいことですが、五四運動の挫折の深さを知らなければ、中国の歴史に近づいたとはいえないのではないでしょうか。六四運動についても。
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6:
noharra
公平中立の立場なので
■ まったく納得できるものではありません。
同報道によれば、富山市は、同後援の取り消しの理由を次のように述べています。
「従軍慰安婦問題が強調されており、市の立場について誤解を招く恐れがある」。また、「申請時は、戦争と女性についての企画という広い意味でとらえていたが、主なテーマが従軍慰安婦問題と後から分かった。市は公平中立の立場なので取り消さざるを得ない」
この富山市の後援取り消しの理由はまったく納得できるものではありません。
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/20c2540845409d0d96045ea32258c7a1
不勉強な公務員が誰かの圧力に負けて言っただけかもしれないが、気に入らない。
「公平中立の立場なので取り消さざるを得ない」という発言を通用させることに異議を唱えなくてはならない。
7:
noharra
多額の血税を倒産会社の高級社員に払い続ける
軍人恩給制度について
1953年復活以来、支給総額は50兆円を超え、いまだ毎年1兆円弱を出し続けている戦後最大の大判振舞は、1銭も貰えない下層兵の嘆きを尻目に受領額1億円を越す高級軍人はごろごろと、またその遺族も貰い続けるという、しかも戦争責任の重さに比例する巧妙さ、実に不可解な制度であります。
因みに我が国が侵略して迷惑をかけた諸外国への有償無償の賠償金は1兆円余。模範生のドイツでさえその10倍と聞けば、軍恩の巨大さが知れようというもの、外国には支払わず、内にあっても足軽雑兵、百姓町人の類は一切捨て置き、天皇の正社員だけに莫大な恩賞を与え続けるとは・・・ これを戦後処理諸悪の根源と申しても決して言い過ぎではないでしょう。
多額の血税をどうして倒産会社の高級社員に集中して払ったのか、同じやるならどうしてドイツのように将軍も兵卒も同額にしなかったか(階級の上下はあれ、命の価値は人間同じである) どうして兵役期間を月単位の累進性にしなかったか?この愚かな垂れ流し制度の糾明と是正は急務です。
http://blog.livedoor.jp/kamakiriikeda/archives/65302706.html
これは、失われていない歴史。
現在、正社員とそうでない労働者との間に目に見えない反目、葛藤があります。正社員はどんなに派遣やパートが困っていても助けようとはしないのみか、自らのポストを守るためには排撃さえも致します。私は最下層の2等兵ですが、上官であった将校さんとも親交がありますがこれら天皇の正社員とはこの現象によく似た微妙な差があります。
(同上)
8:
noharra
民間軍事会社と戦場慰安婦
http://wiredvision.jp/news/200909/2009091521.html
からコピペしておきます。
「[イギリスに本社がある]ArmorGroup North America社は、米国大使館の警護を約1億8700万ドルで請け負っているが、」
『Washington Independent』に掲載されたSpencer Ackerman氏の記事から、重要な段落を引用する。
おそらくは最も深刻な話だった。Gordon氏は、警護隊員ばかりか、ArmorGroup社のプログラム・マネージャーであるNick Du Plessis氏までもが、定期的にカブールの売春宿に出入りしていたことが判明したと語った。
「カブールの売春婦の多くは若い中国人で、意思に反して性的搾取のためカブールに連れてこられている」とGordon氏は言った。[人身売買ネットワークは、戦争によって家を失った者や難民などを主な対象にしているが、アフガニスタンやカタールなど地元女性を見つけるのが難しいイスラム諸国では、中国人女性が買春のために連れてこられるケースが多いという]。
人身売買被害者保護法(TVPA)に対応した米国の請負規則では、請負業者が「契約の履行中に商業的な性行為を周旋すること」が禁じられている。つまり、この違反が米国政府に知られた場合、ArmorGroup社は契約を失うかも知れない。ただし、Gordon氏の訴訟では、ArmorGroup社の従業員がずっと売春婦を勧誘していた、さらには、独自に売春サービスを運営していたかもしれない証拠が繰り返し出ていたものの、ロンドンにある Armor Group本社の命令により、売春問題の調査からGordon氏は締め出された、とされている。Gordon氏は、「少女を2万ドルで購入しても、1ヵ月後には利益が出る」という、訓練生の自慢話を聞いたという。
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12:
noharra
日本政府の謝罪や補償を要請 731部隊の被害者遺族ら
日本政府の謝罪や補償を要請 731部隊の被害者遺族ら
横路衆院議長(左)と面会する「731部隊」被害者遺族の徐万智さん(右から2人目)ら=21日午後、衆院議長公邸
日本政府の謝罪や補償を要請 731部隊の被害者遺族ら
旧日本軍の「731部隊」が使用したペスト菌で親族が死亡したと訴えている徐万智さん(68)=中国湖南省常徳市=ら3人が21日、衆参両院議長を訪ね、日本政府による謝罪や補償、細菌戦に関する資料の公開を求めた。
徐さんは日本政府に損害賠償を求めた訴訟(2007年5月に敗訴確定)の原告代表で、3回目の来日。記者会見では涙を流しながら「裁判で被害は歴史的事実と認められたのに、日本政府は被害者や遺族に謝罪せず、補償もしてこなかった。新政権に謝罪し補償してほしい」と訴えた。
横路孝弘衆院議長は「日本政府は戦争を総括していないのが問題だ。国会できちんと議論し、日本人の手で戦後補償問題を解決しなければならない」と答えた。
徐さんは「横路議長は解決に向け中身のある話をしてくれた」と、今後に期待していた。徐さんらは26日まで滞在し、北海道、岩手、東京、愛媛で証言集会を開く。
15:
noharra69
反歴史修正主義業の大義と現在の著作権理解の公的水準
反歴史修正主義業界の大物である「とほほ」さんが、2009年10月、急逝されたことは、みなさま、ご存知のことと思います。*1
思考錯誤掲示板 はこちら
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?id=sikousakugo
わたしは哀悼の意味も表せず、失礼しておりました。
下記の記事によれば、その掲示板は消滅するだろうとのこと。
膨大な過去記事については、誰かが保管し、公開してくださることを希望します。
こうした問題を考えるときに、現在の著作権理解の公的水準で言うと、遠慮するのが無難であると判断されてしまうことがあると思います。
しかし、反歴史修正主義業の大義というものは、現在の著作権理解の公的水準に優越するという思想を提示し実践していくべきではないでしょうか!
http://www.geocities.jp/yu77799/sikousakugo1.html
「思考錯誤」は、私にとって想い出深い掲示板です。
この掲示板、レベルの高さではネットでも群を抜いていました。ネットでも著名な多くの論客が集まり、質の高い議論を繰り広げる。私の投稿に驚くようなハイレベルのレスがつくこともしばしばで、私も掲示板の議論の中で、実にスリリングな知的体験をさせていただきました。
しかしこの掲示板のオーナーである「とほほ」さんが、2009年10月、急逝されました。とほほさんはご自分のレンタルサーバーで当掲示板を運営されていましたので、残念なことにこの板は、早晩ネットの世界から消え去る運命にあります。
貴重な投稿も数多く、本来であれば掲示板過去ログ全体を保存しておきたいところですが、とても私の手に負えません。とりあえず私の過去投稿から、本サイトと重複しない内容のものを選んで、こちらにまとめてみました。
「失われた歴史」ではありませんが、一人の人が亡くなることは常に歴史が失われていくることであり、忘れていくという自然な傾向を一概に否定すべきではありませんが、反歴史修正主義というものの理解にも関わることですので、ここに掲載しました。
*1:http://www.otchy.net/20091028/tohoho/ こちらを見ると、とほほの WWW 入門 で有名なとほほ(杜甫々)さんと間違ってtwitterでエラい騒ぎになったそうです。言説空間の住み分けみたいな議論のデータになりそうなケースですね。
16:
noharra
「アメリカ人」がネイティブ・アメリカンに謝罪した。
ニューヨーク市は、今からちょうど400年前の1609年、イギリスの探検家 Henry Hudson が上陸して、街を作ったそうだ。当時は New Amsterdam と呼ばれた。協同教会(Collegiate Church)と呼ばれる教会が建てられたのは1628年のことだ。
Christian Church, Native American Tribe Reconcile - その教会で27日、一つの式典が執り行われた。ニューヨーク市にあたる地域の先住民である Lenape 民族の子孫の人たちに対して、司祭は「私たちはあなたがたの資源を奪いつくし、あなたがたの民族の人間性を否定し、あなたがたの文化を、そして夢と希望とこの土地への大いなる愛をないがしろにした」と述べて、史上初めてとなる謝罪を行なった。「痛みとともに、私たちは、自分たちがこれらのことへの加担者であったことを記憶する。」
http://eunheui.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-3681.html
http://www.nytimes.com/aponline/2009/11/27/us/AP-US-Native-Americans-Reconcile.html?_r=1 より
17:
noharra69
陸軍中将が太平洋戦争開戦を批判
昭和16(1941)年12月末、中国・徐州に進駐していた陸軍第17師団の師団長だった平林盛人中将が部下の将校を集め、開戦を批判する演説をしていた。
陸軍中将が太平洋戦争を批判 平林師団長、将校40人の前で演説
2009年12月7日 朝刊
写真
太平洋戦争開戦から間もない昭和16(1941)年12月末、中国・徐州に進駐していた陸軍第17師団の師団長だった平林盛人中将が部下の将校を集め、痛烈に開戦を批判する演説をしていたことが、元部下2人の証言で明らかになった。将校らは「他言無用」と申し合わせ、発言は表面化しなかったという。8日で開戦から68年。平林の危惧(きぐ)した通り、日本は戦争の泥沼に入り込み、日本人だけで300万人以上の命が失われた。
平林の発言を証言したのは、元副官で蓮光寺住職の平谷典樹さん(94)=兵庫県太子町=と、元主計将校で飯野海運元社長の風早英雄さん(97)=東京都目黒区。中でも平谷さんは、起居を共にする一番の側近だった。
2人の元将校の証言によると、平林の発言があったのは、掃討作戦などから徐州の師団本部に戻ってほどない昭和16年12月29日の将校昼食会の席。40人ほどの将校が出席し、食事を済ませると、平林がいつになく険しい表情で話し始めた。
「現在の日本の戦力では、対米英軍相手に干戈(かんか)(いくさ)を交えても、絶対に勝てる見込みはない。真珠湾の奇襲で寝込みを襲い、戦果を挙げたかもしれないが、1年足らずで劣勢に追い込まれ、やがて敗戦に至るだろう」
「装備劣勢の日本軍が近代戦を戦えないことは、先の(ソ連に惨敗した)ノモンハン戦で立証済みである」
「泥沼化している中国戦線を未解決のまま米英軍を相手に戦う余力は、今の日本にはない。負け戦と分かっている戦争は、絶対にやってはならない」
平林はこのように戦争の成り行きを予言。開戦を激しい調子で批判したという。
さらに当時の東条英機首相について「本来憲兵司令官を最後に予備役に編入せらるべき人物で、陸軍大臣、総理大臣の器ではない。この難局を処理する能力など持っていない」と厳しく指弾した。
話を聞いたときの衝撃を、平谷さんは「負けるとは考えもしておらず、みんなしゅんとしていました」と振り返る。風早さんは「びっくりしました。この話はなかったことにしようと、皆で話し合いました」と話した。
平林は東条と気が合わなかったとされ、約1年後、師団長の任を解かれて予備役となった。その後、長野県松本市長となったが、任期途中で再任用され、長野師管区司令官として同県松代町(現長野市)の地下壕(ごう)に首都機能を移す「松代大本営」の建設などに携わり、終戦を迎えた。
◆「良識派」無視し破滅へ
<解説>海軍大将の山本五十六や陸軍中将の石原莞爾(開戦時は予備役)ら、対米英開戦に反対した軍幹部はいる。しかし開戦直後、部下を前に「聖戦」を真っ向から批判したのは、平林くらいのものだ。
当時の日本軍は真珠湾奇襲に成功し、東南アジアでも快進撃を続けていた。勝利を伝える国策報道の影響もあり、国民も前線の兵士も、対米英戦争の勝利を信じ切っていた。
そうした浮かれた気分に冷水を浴びせるような発言は、現在から見ると正当だが、当時としては「不見識」極まりなく、軍の秩序からすれば、到底許されない行為だった。
平林が発言をした背景には、もともと反りが合わず、無謀な戦争を始めた東条英機首相(当時)への憤怒があったとみられるが、それだけではない。
平林は参謀本部員当時、米国を研究する米班に所属し、東京外国語学校(現東京外国語大)で英語を学んだ後に1年間、欧米を視察旅行している。こうした経験などから、特に米国の軍事力を熟知しており、勝ち目はないと知っていた。
平林は陸軍士官学校同期の石原莞爾と親しく、戦線拡大に反対する石原の考えに共鳴していたこともある。
しかし、平林も石原も東条の手で予備役に退かされ、結局は開戦を止めることも、戦争を早く終わらせることもできなかった。
「良識派」の声を吸い上げるシステムを持たない国家は、声高に進軍を叫ぶ主戦派に誤導されるまま、破滅への道を進んだ。 (社会部・加古陽治)
■現代史家の秦郁彦さんの話…昭和16年の12月29日は「勝った勝った」で浮かれていた時期で、現役の師団長がここまで厳しく対米英開戦を批判するのは異例のこと。人事権を持つ東条首相兼陸相に対する思い切った言動には、びっくりした。平林と同期の石原莞爾が東条批判をしており、石原との交流の影響もあると思う。
■平林盛人の三男で、前長野県安曇野市長の伊三郎(いさお)さん(72)の話…父は欧米に滞在した経験があり、妹が米国に移民している。満州国皇帝の愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の弟溥傑(ふけつ)とも親しく、中国での戦争の拡大を心配していた。だから、こらえ切れなくて激怒して話してしまったのではないか。反対なのに止められないもどかしさもあったと思う。
【平林盛人(ひらばやし・もりと)】明治20(1887)年、長野県東穂高村(現安曇野市穂高)生まれ。大町中(現大町高校)を出て陸軍士官学校入学(21期)。参謀本部(米班)勤務、第16師団参謀長、満州国最高顧問、憲兵司令官などを経て、第17師団長。昭和18(1943)年、予備役。同19年に松本市長。同20年、長野師管区司令官。戦後は穂高町長となり、退任後、初代碌山美術館長。昭和44(1969)年、81歳で没。
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2009120702000128.html
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noharra69
陸軍中将が太平洋戦争開戦を批判
昭和16(1941)年12月末、中国・徐州に進駐していた陸軍第17師団の師団長だった平林盛人中将が部下の将校を集め、開戦を批判する演説をしていた。
陸軍中将が太平洋戦争を批判 平林師団長、将校40人の前で演説
2009年12月7日 朝刊
写真
太平洋戦争開戦から間もない昭和16(1941)年12月末、中国・徐州に進駐していた陸軍第17師団の師団長だった平林盛人中将が部下の将校を集め、痛烈に開戦を批判する演説をしていたことが、元部下2人の証言で明らかになった。将校らは「他言無用」と申し合わせ、発言は表面化しなかったという。8日で開戦から68年。平林の危惧(きぐ)した通り、日本は戦争の泥沼に入り込み、日本人だけで300万人以上の命が失われた。
平林の発言を証言したのは、元副官で蓮光寺住職の平谷典樹さん(94)=兵庫県太子町=と、元主計将校で飯野海運元社長の風早英雄さん(97)=東京都目黒区。中でも平谷さんは、起居を共にする一番の側近だった。
2人の元将校の証言によると、平林の発言があったのは、掃討作戦などから徐州の師団本部に戻ってほどない昭和16年12月29日の将校昼食会の席。40人ほどの将校が出席し、食事を済ませると、平林がいつになく険しい表情で話し始めた。
「現在の日本の戦力では、対米英軍相手に干戈(かんか)(いくさ)を交えても、絶対に勝てる見込みはない。真珠湾の奇襲で寝込みを襲い、戦果を挙げたかもしれないが、1年足らずで劣勢に追い込まれ、やがて敗戦に至るだろう」
「装備劣勢の日本軍が近代戦を戦えないことは、先の(ソ連に惨敗した)ノモンハン戦で立証済みである」
「泥沼化している中国戦線を未解決のまま米英軍を相手に戦う余力は、今の日本にはない。負け戦と分かっている戦争は、絶対にやってはならない」
平林はこのように戦争の成り行きを予言。開戦を激しい調子で批判したという。
さらに当時の東条英機首相について「本来憲兵司令官を最後に予備役に編入せらるべき人物で、陸軍大臣、総理大臣の器ではない。この難局を処理する能力など持っていない」と厳しく指弾した。
話を聞いたときの衝撃を、平谷さんは「負けるとは考えもしておらず、みんなしゅんとしていました」と振り返る。風早さんは「びっくりしました。この話はなかったことにしようと、皆で話し合いました」と話した。
平林は東条と気が合わなかったとされ、約1年後、師団長の任を解かれて予備役となった。その後、長野県松本市長となったが、任期途中で再任用され、長野師管区司令官として同県松代町(現長野市)の地下壕(ごう)に首都機能を移す「松代大本営」の建設などに携わり、終戦を迎えた。
◆「良識派」無視し破滅へ
<解説>海軍大将の山本五十六や陸軍中将の石原莞爾(開戦時は予備役)ら、対米英開戦に反対した軍幹部はいる。しかし開戦直後、部下を前に「聖戦」を真っ向から批判したのは、平林くらいのものだ。
当時の日本軍は真珠湾奇襲に成功し、東南アジアでも快進撃を続けていた。勝利を伝える国策報道の影響もあり、国民も前線の兵士も、対米英戦争の勝利を信じ切っていた。
そうした浮かれた気分に冷水を浴びせるような発言は、現在から見ると正当だが、当時としては「不見識」極まりなく、軍の秩序からすれば、到底許されない行為だった。
平林が発言をした背景には、もともと反りが合わず、無謀な戦争を始めた東条英機首相(当時)への憤怒があったとみられるが、それだけではない。
平林は参謀本部員当時、米国を研究する米班に所属し、東京外国語学校(現東京外国語大)で英語を学んだ後に1年間、欧米を視察旅行している。こうした経験などから、特に米国の軍事力を熟知しており、勝ち目はないと知っていた。
平林は陸軍士官学校同期の石原莞爾と親しく、戦線拡大に反対する石原の考えに共鳴していたこともある。
しかし、平林も石原も東条の手で予備役に退かされ、結局は開戦を止めることも、戦争を早く終わらせることもできなかった。
「良識派」の声を吸い上げるシステムを持たない国家は、声高に進軍を叫ぶ主戦派に誤導されるまま、破滅への道を進んだ。 (社会部・加古陽治)
■現代史家の秦郁彦さんの話…昭和16年の12月29日は「勝った勝った」で浮かれていた時期で、現役の師団長がここまで厳しく対米英開戦を批判するのは異例のこと。人事権を持つ東条首相兼陸相に対する思い切った言動には、びっくりした。平林と同期の石原莞爾が東条批判をしており、石原との交流の影響もあると思う。
■平林盛人の三男で、前長野県安曇野市長の伊三郎(いさお)さん(72)の話…父は欧米に滞在した経験があり、妹が米国に移民している。満州国皇帝の愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の弟溥傑(ふけつ)とも親しく、中国での戦争の拡大を心配していた。だから、こらえ切れなくて激怒して話してしまったのではないか。反対なのに止められないもどかしさもあったと思う。
【平林盛人(ひらばやし・もりと)】明治20(1887)年、長野県東穂高村(現安曇野市穂高)生まれ。大町中(現大町高校)を出て陸軍士官学校入学(21期)。参謀本部(米班)勤務、第16師団参謀長、満州国最高顧問、憲兵司令官などを経て、第17師団長。昭和18(1943)年、予備役。同19年に松本市長。同20年、長野師管区司令官。戦後は穂高町長となり、退任後、初代碌山美術館長。昭和44(1969)年、81歳で没。
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2009120702000128.html
noharra69=noharraです。まちがえた。
19:
noharra
マクヴァ語は「話してはいけない」言語
20:
noharra
映画「暁の脱走」 谷口千吉 1950
昭和25年に新東宝で作られた反戦映画。これは当時、最初から反戦映画として企画され、紆余曲折を経て完成された力作です。監督は『銀嶺の果て』の谷口千吉。主演は池部良と山口淑子。田村泰次郎の「春婦伝」を谷口千吉と黒澤明が脚色したものだが、原作ではヒロイン春美が慰安婦になっていたものを、映画では戦場慰問の歌手に変えている。これは最初の脚本ではちゃんと慰安婦だったのですが、脚本が占領軍の検閲官に渡った時点で、真っ先に変更されてしまったもの。当時の大スター山口淑子が慰安婦役を嫌がったとか、戦場に慰安婦がいた事実を隠そうとしたとか、そういう類のものではない。反戦映画という大義名分があったとしても、当時の大衆娯楽作品として、主人公のひとりが「慰安婦」では内容が扇情的すぎると判断されたのです。(この辺りの経緯については、平野共余子の「天皇と接吻」に詳しい。)
占領軍の検閲官が「慰安婦」では扇情的すぎるとして、戦場慰問の歌手に変えられた。「扇情的すぎる」とはどういうニュアンスなのか、下品過ぎるといった感じかな。
とりあえず、メモ。
「春婦伝」については、鈴木清順 1965 もありますね。
参考の1例:http://blog.goo.ne.jp/langberg/e/1616ed26454ca76809e555b631d7b6d2
21:
noharra
北京で北朝鮮アートの展示会
、富裕層が希少性に注目
写真
http://www.cnn.co.jp/showbiz/images/CNN200912290007.jpg
北京(CNN) 中国の現代アート発信地として知られる北京の「798芸術区」で、北朝鮮アートの展示会が開かれている。北京の投資会社が北朝鮮と提携し、北朝鮮の文化省が選んだ油絵や水墨画を販売。その珍しさから、主に中国の富裕層が投資目的で買っていくという。
ギャラリーには、風景画、肖像画、生活風景などを描いた絵画や、陶磁器、天然石が並ぶ。前衛的な色彩の強い周辺のギャラリーに比べると作風は一見地味だが、北朝鮮アートの展示会が開かれるのは中国でも珍しいという。展示されているのは平壌の芸術院に所属する北朝鮮のベテラン画家20人の作品。北朝鮮文化省選定の油絵60枚、水墨画30枚を販売する提携を結んでいるという。
週末には約100人、平日でも60人ほどが作品を見に訪れ、経営者によれば、既に展示作品の30%が売れた。値段は公表されていないが、買い手はもっぱら香港や広州、大連といった大都市に住む裕福な実業家で、北朝鮮はいまだに外の世界から閉ざされた国であり、芸術作品は投資価値があるとの判断から買って行く人がほとんどだという。
北朝鮮アートと称する作品は中国国内やほかの国でも出回っているかもしれないが、正真正銘の作品が手に入るのはここだけだとギャラリー経営者は胸を張る。ただし北朝鮮では芸術作品は個人のものではなく、売上金は画家の手に渡ることなく国のものになるという。
中国は北朝鮮との国交樹立60周年を記念して、今年夏にも北京で北朝鮮の刺繍と宝飾品の展示会を開催した。今回の展示会のオープニングには北朝鮮当局者3人と画家1人が出席。しかしメディアの取材には応じなかった。
ギャラリーでは数カ月にわたり、新しい作品を順次展示する予定だという。
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沖縄戦中に主婦が新聞投書
日本軍守備隊2700人に住民3800人。1945年4月16日に米軍は上陸し、21日占領したが、その間予期を超す抵抗に遭遇した。日本側の死者4700人余。米陸軍の戦記は、多数の民間戦闘員(住民)に乳飲み子を抱えた女性もいて、米軍へ切り込んできたと記録している。
(略)
伊江島激戦のさなか、東京の毎日新聞投書欄で主婦が「当局に伺いたい」と迫った。戦いに母親が倒れたら子供たちをどうしてくれるのか。それがはっきりしない、ちゃんと保護すると約束しろという趣旨だ。当時異例の批判だが、本土決戦を叫んでいる政府や軍、新聞も実は何も確たる見通しはなく、ただずるずると事態を放置しているだけではないかという疑念がそこにはのぞいている。
http://mainichi.jp/select/opinion/hasshinbako/news/20100112k0000m070110000c.html
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乳幼児8人強制死 新証言 日本兵が銃殺、親も毒薬や素手で
乳幼児8人強制死 新証言 日本兵が銃殺、親も毒薬や素手で
乳幼児が次々と死に追い込まれた状況を証言する石川静子さん=2010年4月、うるま市の自宅
1944年7月のサイパン陥落前後、激しい地上戦で島の北部に追いつめられた県出身で親類同士の0〜4歳までの乳幼児8人が日本兵や親の手で次々に死に追い込まれたことが、複数の親族の証言で分かった。そのうち1人は避難していた壕内で日本兵が銃殺。それがきっかけとなり、親類の親らが毒薬や素手で2人の子を手に掛けたという。この壕では親類以外の子も「大勢死んだ」と証言者は話しており、混乱状態に陥った壕内で乳幼児を巻き込んだ「集団自決」(強制集団死)が起きたことも明らかになった。琉球新報の取材で証言者は一様に「体験を話すのは初めて」と語っている。
証言したのは当時、サイパン島の北部に住み、親族らで戦場を逃げ回った久高樽さん=故人、うるま市出身、当時60歳=の娘の渡久地トシ子さん(83)や孫の石川静子さん(73)ら。犠牲となったのは樽さんの孫や親類の子どもら8人。
渡久地さんらによると、樽さんの孫・将一ちゃん=当時6カ月=は同年7月8日、サイパン島北部の海沿いにある壕内で日本兵に「泣かすな。敵に気づかれる」と銃殺された。
これを見た親類も「自分で死ぬことができないから」と子どもを手に掛け、2人が犠牲となった。残る5人の子も別の場所で、親らによって命を絶たれたという。
沖縄戦に詳しい石原昌家沖国大名誉教授は「軍民雑居の状況では、日本軍は住民は機密を知ったとして投降を許さず、死に追い込むという皇軍の本質が出た」と指摘した。
吉浜忍同大教授は「米軍は南洋の戦いを戦訓に、約1年後の沖縄戦で日本兵と住民を混在させない作戦をとったが、日本軍は戦訓に住民の視点はまったくなく、沖縄戦で同じ悲劇を招いた。住民避難地域を設けず、むしろ住民を盾にした」と説明した。(新垣毅)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-162903-storytopic-1.html
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noharra
犠牲者遺族による証言
http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/4949544706b93eb06ed324da6f86ab8d?fm=rss から
6月19日(土)の午後6時から読谷村文化センターで「沖縄戦『強制連行犠牲者』遺族による証言の集い」が開かれた。主催はNPO法人沖縄恨(ハン)之碑の会。親が日本軍に徴用されて沖縄戦の犠牲となった権水清(グォン・スチョン)氏が韓国から来沖した。
〈幼い頃にあまりにも厳しい生活が始まったので、どこにも心の便りにすることができない異郷をさまよいながら住みました。そうしたのできちんと学ぶことができず、ただ食べていくことに気をつけるしかありませんでした。夢中でいきながらも、子供心に父がまだ生きて帰ってくるような気持で、死亡の申告もせず生きてきました。どこにでも、生きていたなら、いつでも帰ってくるだろうと思いながら生きてきました。故郷の善山にも母のお墓だけあって、父は仮の墓もこしらえないままで〉(8ページ)。
http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/4949544706b93eb06ed324da6f86ab8d?fm=rss
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日本人にとって山西省とは?
ブログで譚璐美 さんの本『「天安門」十年の夢』から岳武という人の発言を少し取り上げた。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20101225#p1
岳武が住んでいた山西省というところは、鉱物資源のうえに乗っかった地方だといっていい。中国有数の石炭埋蔵量を誇り、鉄鋼石の産地としても名高い。(同書 p137)
地理的な紹介としてはそれで良いかもしれない。しかし、「日中戦争」における日本と中国の関わりという点からは他の省とは違って、非常にクリティカルな記憶を日中双方に残している省であることは何度も確認される必要がある。日本人にとって。
☆ 今回、浜田知明(1917(大正6)年、熊本県上益城郡高木村(現・御船町高木)で生まれ、青春時代に戦争を体験した。版画家、彫刻家。)の版画、従軍体験を紹介しているdi19さんのブログが、話題になっているのでここでも紹介しておきます。
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20101219/p1
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20101220/p1
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20101225/p1
☆ 「従軍慰安婦」関係だと、映画「
「ガイサンシー(蓋山西)とその姉妹たち」の主人公たちが住んでいたのも山西省。*1
「中国人従軍慰安婦」で名乗り出た人の割合はおそらく1割以下(ではないかと思う。)である。名乗り出た人山西省に集中しているという傾向がある。
☆ 野原の「わたしたちは忘却を達成した」でも触れた。この文章は先日netから消えてまだ回復してない。
☆ 田村泰次郎について、上記ji19の(2)でも紹介されている。
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/9/23 でも少し触れた。
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