日常生活では、どんな店屋の主人でもしごくあたりまえに、ある人が自分がこうだと称する人柄と、その人が実際にどういう人であるのかということを区別することぐらいはできるのに、わが歴史記述ときては、まだこんなありふれた認識にさえも達していないのである。それは、あらゆる時代を、その時代が自分自身について語り、思い描いた言葉どおりに信じ込んでいるのである。 『ドイツ・イデオロギー』
070705
■ その4 Rep. Jackson-Lee on "Comfort Women"

http://youtube.com/watch?v=k179t8-L7Vw
My colleague, Congresswoman Sheila Jackson-Lee, advocates passionately for honestly addressing the crimes against Comfort Women
その時代とは関係ない今を生きる私だけれども、彼女たち(慰安婦たち)に私は謝りたいと思う、といっている。スコット議員も黒人として発言し、過去の米国の奴隷のことを発言の中に含めている。
たとえば、今の日本の一部の論調で言えば、「19世紀には奴隷を売り買いして綿花を育てていたのは、当時の法律で違法ではないのだから、そのことに対してわれわれは謝罪する必要はない」ということになるだろう(慰安婦が違法だったかどうか、の検討はさておき)。一方で謝罪をするということが、今のわれわれや国家がどうあるべきか、ということの宣言である、という重要な意味合いを持つという考え方もあるのである。スピーチ、あるいはパブリックに対する声明に関する考え方や感覚の日本と米国(欧州もそうだが)の違いも念頭におく必要がある。
コメント
トラックバック - http://ianhu.g.hatena.ne.jp/kmiura/20070705