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ni0615
「つくる会」の軍師にでもなりたや秦郁彦さん
■ 【正論】秦郁彦 沖縄集団自決をめぐる理と情
■報道は冷静な検証の姿勢忘れずに
07/06 06:53
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≪情緒過剰な記事が並ぶ≫
6月23日は、62年前に沖縄本島南端の摩文仁(まぶに)の洞穴で、牛島軍司令官が自決、沖縄戦における日本軍の組織的抵抗が終わった日である。
沖縄県は、この日を「慰霊の日」と定め、軍人・軍属、一般住民がそれぞれ9万余人、米兵をふくめると20万人の全戦没者を追悼する式典を挙行してきた。しかし今年は、住民の集団自決をめぐる高校用日本史教科書の検定で「軍命令による強制」が削除されたことについて、県議会が検定意見の撤回を求める意見書を採択したこともあり、騒然とした「慰霊の日」となった。
ほぼ全面無視した読売新聞を除き、主要各紙は社説や社会面記事で大々的にこの問題をとりあげた。これまでは「沖縄の心」という目に見えぬ壁への配慮が働き、マスコミも識者もハレものにさわるような扱いをしてきたが、今年も同じトーンで生き残りの体験談を軸に情緒過剰な詠嘆調の記事が並んだ。今や生き残りといっても、当時は10歳前後だった人たちが主だから、要領をえないあやふやな証言ばかりになってしまった。
たとえば、県の意見書のまとめ役になった当時8歳だった議員の体験談は「200人ほどの住民と壕に隠れていたところ、3人の日本兵が来て、泣き続けていた3歳の妹といとこに毒入りのおむすびを食べさせるよう迫った。敵に気づかれるのを恐れたため」(6月23日付朝日)というのだが、記者は不自然さに気づかなかったのだろうか。
激戦のさなかに毒入りおむすびを作る余裕があるのか、毒と告げて親が食べさせるものか、食べたとしても、苦悶(くもん)の泣き声に変わるだけではないのか、そんなことをしなくても、200人も入っている広い洞穴なら奥へ移ればすむのではないか、と疑問の種はつきない。問題はそうした検証をいっさい放棄して、記事に仕立てた記者の資質にある。
≪攻撃用武器の手投げ弾≫
ついでに記すと、県議会では「集団自決の軍命令はあったはず」と主張する野党と「なかったらしい」と主張する与党の議員が対立、妥協のすえ意見書は「日本軍による関与なしに起こり得なかった」という争点を外した表現におちついたとのこと。
「関与」とは一部で日本軍の手投げ弾が自決用に使われたのを指しているらしいが、兵器不足に悩み、兵士に竹槍まで持たせていた日本軍にとって、手投げ弾は貴重な攻撃用武器だった。現地召集の防衛隊員(軍人)に持たせていたものが家族の自決に流用されたのに、16歳だった語り部の元短大学長が「手投げ弾は自決命令を現実化したものだ」と語るのを、朝日が社説(6月23日付)で「悲惨な証言」と信じ込み、引用しているのはいかがなものか。
≪軍命令見つからない理由≫
さすがに社説ともなると冷静なタッチが多いなかで、朝日だけは突出した情緒論で終始している。他にも日本軍は住民が捕虜になることを許さず、「敵に投降するものはスパイとみなして射殺する」と警告し実行していったとか、捕らえられれば「女性は辱めを受け、男性は残忍な方法で殺される。日本軍はそう住民に信じ込ませた」と書いているが、いずれも事実無根に近い。
牛島軍は、県当局と協議して住民を予想戦場から遠ざけるため本土や本島北部への疎開を命じ、戦闘末期には米軍の保護に委ねるふくみで戦場外の知念半島への避難を指示している。
その結果、米軍記録によると28万余人の住民が投降した。そのなかには日本軍陣地へ投降勧告に出向く志願者がいて、スパイと疑われ処刑された例もあったが、例外的事件にすぎない。
そのころ12歳の軍国少年だった筆者も「鬼畜米英」への憎しみと恐怖を抱いていた記憶はあるが、誰が吹きこんだのか覚えていない。親や先生ではなかったと思うし、ひょっとすると、わが家で取っていた朝日新聞か主婦の友かもと考えたりもするが、少なくともこの種の流言、浮説を記した政府・軍の公文書はなかったと思う。
ところが、研究者でも集団自決や慰安婦の強制連行を証する軍命令が見つからないのは、終戦時に焼却したからだとか、個々の命令はなくても戦前期の天皇制や軍国主義教育に起因すると強弁する人が少なくない。
集団自決が起きたのに「いまさら『日本軍は無関係』と言うのなら、それは沖縄をもう一度裏切ることになる」としめくくった朝日社説も同類項なのだろうか。(はた いくひこ=現代史家)
関東大震災でも、当時は10歳前後 10歳から14歳ぐらいだった人たちの証言こそ確かだった。東京大空襲でもそうだ。ヒロシマ・ナガサキの被曝体験でもそうだ。15歳以上の大人は、後から書かれた新聞などの情報に自分の体験を合わせて記憶としてしまう しまう傾向があり、話の脈略は確かかもしれないが、大マスコミや大先生が発する「常識論」に負けて、事実のもつ意外性を記憶から消してしまう傾向も否めない。若年者の記憶は証言の資格が無い、というのは証言を聞く耳もたない人間の言葉だ。
実証主義者の面目をかなぐり捨てて、軍国少年の昔に「戻っちまった」秦郁彦翁。
ひとつ一つが皆ツッコミどころ満載。
県の意見書のまとめ役になった当時8歳だった議員
秦郁彦さんは、この人が沖縄自民党の県議会議長だということを知ってて対決したのだろうか?
それとも、産経新聞は沖縄には届かないとタカを括っていたのだろうか?
どなたか、秦さんの「朝日新聞6月23日」からの引用の仕方を検証してくださいませんか。
3:
ni0615
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Re:Re:「つくる会」の軍師にでもなりたや秦郁彦さん
dempaxさん
ありがとうございます。確かに、仲里利信県議会議長だったのですね。
秦先生の「引用」元の朝日記事の原型は見つかりませんでしたが、琉球新報記事は、愛・蔵太氏がフォローしていました。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20070622/doku
琉球新報記事を孫引きします。
毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る
「歴史は正しく語り継がなければ」と強調する仲里利信県議会議長=南風原町の自宅 「弟が目の前で死んでも悲しんでいる余裕さえもなかった。父も沖縄戦で死んだ。歴史を風化させないために正しく語り継いでいかなければならない」。22日の県議会意見書可決を前に、仲里利信議長(70)が自身の沖縄戦体験について告白し、全会一致への決意を新たにした。仲里議長は19日の県議会文教厚生委員会でも戦争の現実を訴えた。
1945年2月の夜、通信隊に入っていた父・利吉さんが、ふいに現れた。「今度の戦は負け戦に間違いない。ここにいると駄目だから、すぐにやんばるに行け」。父が手配していた友軍(日本軍)の車で家族9人、宜野座へ避難した。
海からの艦砲射撃が激しくなった4、5月ごろ、ガマに移動した。200人ほどが入れる大きなガマだった。そこは「スパイがはびこってる」「あの人もそう」とたくさんのうわさが飛び交い、険悪な空気が流れていた。
その中で3歳の妹と同じ年のいとこが泣きじゃくった。しばらくして3人の日本兵が来て、「この子たちが泣いてると、敵に発見されてみんな殺される。これを食べさせろ」と毒の入った白いおむすびを持ってきた。家族みんなで話し合ったが、すぐに「家族は一緒だ。食べさせられんさー」と全員でガマを出た。
その後はガマや墓に隠れたが、家族壕を掘るために、弟を背負い、母と3人で山に向かった。ようやく壕が完成し、残りの家族を迎えに行こうと山を下りていくと、2、300メートル先に14、5人の米兵の姿を見つけ、一目散に山へ戻った。
後は別れた家族を捜して、何も口にせずに何日も山を歩いた。母の母乳も出なくなり、弟が弱っていった。恩納村、宜野座と回り、金武で残りの家族と再会できたが、そこにも食糧はなく、弟は満1歳で衰弱死した。「(1年前の)生まれた日の生まれた時間だ」と母が静かに言った。死体は金武に埋めて、戦後掘りに行ったが、捜しきれなかった。
自身の体験と重ね合わせながら仲里議長は「歴史を風化させたら、また戦争への道を歩んでしまう」と危機感を募らせる。「平和を願う気持ちは全県民一緒だよ。この問題は保守革新も関係ない。県議会も全会一致でまとめることに重みがある」。仲里議長の静かな口調に強い決意がにじんだ。(深沢友紀)
(6/21 9:50)
4:
lovelovedog
3
Re:Re:Re:「つくる会」の軍師にでもなりたや秦郁彦さん
5:
kmiura
1
Re:「つくる会」の軍師にでもなりたや秦郁彦さん
秦氏の沖縄に関する論は、慰安婦問題と同様の戦略なのでひとこと。
「軍命令があったかどうか」という土俵に議論すすめる際には注意したほうがいいと思います。従軍慰安婦の場合は狭義の強制があったかどうか、という議論にもちこむことで、複雑に心理的な過程である強制売春・性奴隷化の過程を単純化して裁く(すなわち自己責任か否か)という手法が導入されましたが、これはそもそも国・軍がおこなった隠蔽工作を、そのまま60年以上の時代を超えて運用しているということに他ならず、隠蔽したというさまざまな状況証拠を踏み越えて「書類がないから自己責任」という理屈です。結局、第二次世界大戦における日本の行為は「ファシズムではなくて自己責任」と主張したいのだろうな、と思います。あいも変わらず「総ざんげ」。
沖縄に関しても同じことを秦氏はしようとしている。したがって、その土俵に踏み込むには、当時の国・軍部の工作をそのまま現在請け負っている彼の歴史学を、いろいろな角度から批判することがポイントになると思います。そうでないと、従軍慰安婦の議論と同様「資料をだせ」連呼の呼び水になるだけで徒労になると思います。
なお、沖縄の場合にも米軍の資料が重要になってくるだろうな、という気がしています。これまた林先生のサイトから。
『沖縄タイムス』2006.10.11
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper73.htm
これらの米軍の報告書の記述は、何人かの島民の証言に基づく記述であると見られる。報告書の日付から見てそれらの証言は3月末か4月初めにはなされている。それらの証言を記録した尋問調書があるはずだが、残念ながらまだ見つかっていない。それらが出てくるともっと詳細にその証言内容がわかると思われる。ただこれらの断片的な内容からも、「集団自決」がおきた直後の時点において、慶留間島では複数の日本兵から米軍上陸時には自決せよと命じられていること、座間味でも島民たちが自決するように指導されていたことが、保護された島民たちの証言で示されている(ただ座間味以外の慶良間の島民による証言が含まれている可能性はある)。日本兵という主語が明記されているのは慶留間のケースだけだが、日本兵からの自決命令があったことは、戦後創作されたものではなく、すでに3月下旬時点において島民たちによって語られていたことがわかる。慶良間の島民たちは、いざというときには自決するように命令あるいは指導・誘導されていたことは、多くの島民の証言によってすでに明らかにされているが、あらためて当時作成された報告書によっても裏づけられた。米軍の状況認識は正確であったといえるだろう。
米軍に保護された島民たちからは、家族を殺したことを悔い、山に隠れている人たちに本当のことを話して死なずに家に戻るように話したいとはっきりと言う人たちが何人も出てきたことも書かれている。日本兵による虐待に反発し投降してきた朝鮮人軍夫の記述がいくつもある。3月下旬の段階での慶良間列島の状況がわかる資料であり、日本軍を中心とする戦時体制が島民の生命を犠牲にしたことがよくわかる。部隊長の特定の命令があったかなかったという問題だけに「集団自決」の議論を限定し、日本軍の名誉回復をはかろうとする企てが、いかに視野の狭い、木を見て森を見ない愚論であるか、米軍資料を読みながら改めて感じた。
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ni0615
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Re:Re:Re:Re:「つくる会」の軍師にでもなりたや秦郁彦さん
どうもこんにちは。
仲里さんの発言は、youtubeでも見ることができますよ。
愛・蔵太さん、YouTube情報有難うございます。記者が書いた文章でなく、本人の肉声である映像できくと、証言の実在感もまた違うものになりますね。
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