日常生活では、どんな店屋の主人でもしごくあたりまえに、ある人が自分がこうだと称する人柄と、その人が実際にどういう人であるのかということを区別することぐらいはできるのに、わが歴史記述ときては、まだこんなありふれた認識にさえも達していないのである。それは、あらゆる時代を、その時代が自分自身について語り、思い描いた言葉どおりに信じ込んでいるのである。 『ドイツ・イデオロギー』
071010
■ 強制徴用があったか否か、というのは日本国内でのみ流通している土俵である。

コモリ氏のコメント欄でbettoraさんという方が次のような簡潔で本質をついたコメントを書いている。
確かに私は古森さんの考え(問題の核心=日本軍が方針として女性を強制徴用していたかどうか)にに納得していません。
理由を整理してまとめておきますと、
1)米下院外交委の最終的な決議文は、「日本軍が方針として女性を強制徴用していた」という認識に立たずとも受け入れ可能なものとなっている。
そして何より、
2)「慰安婦は商行為であり、強制などほとんど存在しなかった」等の証言者を嘘つき呼ばわりするかのような日本国内の一部の主張が各国の反発を呼び、問題を大きくしている。
http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/329253/
2007/10/09 03:50
日本の国内では小林よしのり氏が「強制徴用はなかったから日本政府は間違っていない」という理屈を編み出したため、強制徴用があったかなかったか、ということが重要な問題点になっている。この問題点は日本国外では共有されていない。問題点が共有されていなければ、まずその共有をするための説明をすべきなのだが、説明もせずにたとえば安倍首相が「強制はなかった」と公言したり、ワシントンポストに「強制はなかった」と広告をだして溜飲をさげたり、はたまたコモリ氏が米国のテレビにでて「強制はなかったんです、それがポイント」とインタビューに答えてインタビューをしているファリード・ザカリア氏に「は?」という顔をされるというなんとも珍妙なしかし深刻なロスト・イン・トランスレーションが現前している。
なお、「強制徴用があったか」という問題を紐とくさいに重要なのは強制の主体、主語の定義である。頻繁にみかけるセンテンス「日本軍は強制徴用をしなかった」というテンプレがあるが、日本軍は主語としてあいまいである。主語の主体、個人がどのようなものであるのかが変数だ。日本軍、という場合にそれが一兵卒を指すのか、はたまた最高責任者であった昭和天皇個人を指すのか、あるいはその間の階級にあるどこかをさすのかが不明なため、「強制徴用はなかった」と主張する人々の間で日本軍の主体は実にフレキシブルに変化する。師団長が強制徴用をしたとしても「それは個人の悪い行いであるが日本軍の方針ではない」となるのであるから、この手の議論をする際には、まず日本軍の主体の定義をきっちり定めてからでないと主体がころころかわるので”なかった”ということになる。
古森さんの続報を期待してたんですが、いきなり国連をダシにした小沢批判のエントリに変わってしまいました(これも相変わらずですが)。思い切り尻切れトンボで終わるのでしょうか?
それにしても、自分の意見に都合がよければ、ただのエッセイでも引用して「記者」にして事実っぽく装飾するあたりがなんともせこいな、と思います。ご自分の意見の方はむろんみるも無残というか、まわりからの批判を読めていないのでしょうね。